都営大江戸線が環状運転にならなかったワケ 都庁前駅はオイルショックで誕生?

大江戸線のルーツは50年以上前の計画に

 大江戸線のルーツは1962(昭和37)年、新たに地下鉄計画に追加された「9号線」まで遡ります。新宿の東側、大きく迂回して麻布に回る「環状部」は大江戸線に似ていますが、新宿より西側は光が丘ではなく、京王線の芦花公園駅(東京都世田谷区)に向かう計画でした。

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京王線の芦花公園駅から新宿を経由し、都心を大きく回りながら麻布に至る9号線の計画ルート(都市交通審議会答申第6号を枝久保達也が加工)。
光が丘につながる「放射部」が加わった12号線の計画ルート(都市交通審議会答申第15号を枝久保達也が加工)。
新宿付近の12号線計画ルートと現在の都営大江戸線ルート(『大江戸線建設物語』を参考に国土地理院の地図を乗りものニュース編集部が加工)。

 1968(昭和43)年には、京王線に直通する地下鉄10号線(現在の都営新宿線)の計画が追加され、旧9号線の環状部は12号線として独立。また4年後の1972(昭和47)年には、米軍基地跡地を再開発する光が丘団地の通勤輸送を担う「放射部」が加えられ、現在のような「6の字形」となりました。

 ただルートをよく見ると、実際に建設された大江戸線とは異なる部分があることに気付きます。最大の違いは新宿駅と飯田橋駅を避けている点です。都市機能の一極集中を避けるため、あえて既存のターミナルから離れた位置に駅を設置する構想でした。

 12号線は新宿西口に「西新宿駅」を設置する計画でした(この時点ではまだ丸ノ内線の西新宿駅は開業していません)。西新宿駅は麻布方面ホームと蔵前方面ホームをL字型につないだ構造で、光が丘方面から来た列車は麻布方面ホームに発着、都心をぐるりと一周して蔵前方面ホームに到着し、折り返し光が丘に向けて運転する計画でした。

 ふたつのホームが離れているのは、並べて設置するには道路の幅が足りなかったからです。光が丘から都心に向かう通勤客は、オフィス街である渋谷区、港区方面の流動の方が大きくなるため、麻布方面が通過式のホームとなり、蔵前方面が折り返しホームとなりました。

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コメント

2件のコメント

  1. 石原は戦犯。「大江戸線」の名称は18年経った今でもダサく感じる。12号線の方がまだマシ。

  2. >オフィス街である渋谷区、港区方面の流動の方が大きくなるため

    大きな誤り

    当時は、渋谷区が渋谷町から区になったものの山手線ホームは今のように2面でなく1面で十分な住宅でした。
    昭和初期にハチ公がいたように、当時は渋谷駅の利用者が、あの犬は誰の犬か分かる閑静な住宅地レベルでした。

    また、住宅街の渋谷駅からオフィス街の新橋駅に行く都バスが1番本数が多かったのも有名な話。

    昔は、よそ者が書いている話は信用性にかけたが、今は、地元の者が発信している信用性の高い資料が簡単に手に入る

    例えば、港区と言えば23区で唯一の米軍基地のある区。六本木ヒルズの向かい。青山霊園を未だに占領している区。騒音問題が起こらないように、賑やかな街に変貌して気が付かないように隠している。地元の者が発信している信用性の高い資料が簡単に手に入る

    表参道が泣いてます。どう見ても、「参道」の言葉が似合わない恥ずかしい道に変貌してしまい、明治神宮も閑静な風貌より、落ち着かないイメージとして価値が下がってしまった。地元の者が発信している信用性の高い資料が簡単に手に入る