かつては路面電車、ナニワの路線バスなぜ衰退 いまやわずか2往復の阪神バス北大阪線

旺盛だった通勤需要 街の変化とともに減退

 野田~中津間には、過去には大きな通勤需要がありました。路面電車が廃止された当時の住宅地図を見てみると、沿線には鉄工所や食品、メリヤス、製紙などの工場などが軒を連ねています。これは電車の開業(1914年)当時に、阪神の関連会社「阪神土地」が積極的に工場を誘致したため。しかし、いまや大手工場はことごとく郊外に移転してしまい、周囲の小規模な工場も高齢化などで姿を消しています。

 歓楽街としても知られた天六はいまも賑わってはいますが、かつては遠くからも人を集めたような映画館、遊興施設はほとんど消滅しています。野田には昭和の中ごろに全国有数の大規模量販店がオープンし、天六のあいだで買い物の需要もあったようですが、沿線にスーパーなども増えたことで、その必要もなくなっているでしょう。

 また、近年開発された茶屋町や北野の商業施設にも、位置から考えば梅田から行く人が多いと推測されます。梅田を経由していない北大阪線は、梅田の通勤客にも使いづらいといえるかもしれません。

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北野停留所付近にはファッションビル「NU茶屋町」や梅田ロフト、毎日放送本社がある(画像:oleolesaggy)。

 路面電車の北大阪線は、阪神電鉄が沿線の整地を引き受け、道路まで自ら造成したうえで開業しました。バスが走る道路が広いのは、最初から鉄道に合わせて広く造られた名残。ほかにも路面電車時代の名残がいくつかありましたが、それも失われていきました。

 終点だった天六の電停跡はバスの待機場となり、係員が待機して笛でバスを誘導する光景が見られましたが、近年のダイヤ削減にともない撤去されました。現在、北大阪線のバスは大阪シティバスの停留所を共同使用しています。

 阪急中津駅横にある中津交差点では、野田から来た北大阪線の電車が右折して道路の左側に寄り、阪急の3複線(神戸線/宝塚線/京都線それぞれの上下線が並ぶ)と並行して「4複線が見られる場所」として鉄道ファンに知られていました。阪急の3複線、北大阪線、道路とそれぞれ鉄橋のトラスが並行していたのですが、北大阪線の敷地は道路の一部となり、阪急以外のトラスは撤去されました。

 いま、野田駅の北側、阪神電鉄の本社前には、同社が路面電車を運行していたことを記した石碑があり、その足元に当時の軌道の敷石が使われています。

【了】

※記事制作協力:風来堂、oleolesaggy

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コメント

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4件のコメント

  1. いいですなあ

  2. 天六の交差点で唐突かつ不自然な一方通行になってるのも痕跡っちゃあ痕跡か。
    これもいずれ改良されてしまうのかね?

  3. 大淀地区と野田阪神の輸送で大阪シティバスと競合しているのも原因の一つでしょう

  4. 北大阪線現行でも、野田~天六の全線通し運行は土休日夕方の1本のみです。
    今回の改正でこの1本を残して、毎日運行される野田~中津の区間便が全廃されます。