発見された戦艦「比叡」の艦歴を振り返る 切手に描かれた御召艦が鉄底海峡に眠るまで

「アイドル」から「戦う」艦へ

 1936(昭和11)年12月末のロンドン海軍軍縮条約切れを待って、「比叡」は、1937(昭和12)年4月から広島県の呉工廠にて、「戦艦」として復活する大改装が施されます。ちなみに「金剛」も、1931(昭和6)年の改装で戦艦へと艦種変更されていました。「比叡」の改装は約3年という時間を掛け、1940(昭和15)年1月31日に完了。機関を換装することで、最高速度約30ノット(55.5km/h)を発揮できる「高速戦艦」となったほか、試験的に塔型構造の艦橋を採用するなど、後の「大和」型建造のテストを兼ねていました。

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1942年6月に撮影された「比叡」。戦没のおよそ5か月前の姿(画像:アメリカ海軍)。

 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日の「真珠湾攻撃」には、その高速性能を生かして、空母機動部隊の護衛として参加しました。足の速い空母機動部隊に随伴できる貴重な戦艦として、以後「ミッドウェー作戦」にも参加するなどしましたが、主砲で敵戦艦と撃ち合う場面も無く、次々と艦載機を発進させる空母の脇で、海戦の主役が戦艦から航空機に移っていく有様を目撃し続けたのでした。

 やがて1942(昭和17)年11月、日本軍はアメリカ軍との、ガダルカナル島をめぐる熾烈な攻防戦を繰り広げていました。戦況は、同島にあるヘンダーソン飛行場から飛来するアメリカ機の攻撃で、日本軍は輸送が妨害され、不利な展開でした。そこで足の速い「比叡」と同型の「霧島」を主力とする艦隊が、夜間にヘンダーソン飛行場へ忍び寄り、砲撃して破壊しようと行動を開始します。11月13日の、月の無い闇夜に始まった「第3次ソロモン海戦」です。

 午前1時30分(現地時間)より始まった、のちに「第一夜戦」と呼ばれる戦闘は、日米双方で足並みが乱れ、統制のとれない出会い頭での戦いでした。飛行場への砲撃は果たせず、敵味方の識別もままならない混戦となり、「比叡」は敵艦を砲撃するため探照灯(サーチライト)を使用しました。闇夜の灯火は当然、目立ちますし、言うまでもなく敵にとっては良い的。そのため敵弾が「比叡」に集中します。命中弾は80発以上を数え、「比叡」は操舵不能に陥り、艦橋を中心に上部構造物へ大きな被害を受けました。

 主砲や機関は無事だったため、退避すべく舵の復旧作業が進められましたが、夜明けと共に開始された空襲によりその主砲や機関にも損傷を受けるなどし、午後になるともはや復旧不能と判断され、総員退艦と注水による自沈が命じられました。

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