廃止の貨物線「敦賀港線」、実はこんなにスゴかった! 戦前は「大陸への玄関口」
北陸本線の支線「敦賀港線」2.7kmが廃止されます。終点の敦賀港駅は戦前、「欧亜連絡列車」が発着する大陸の玄関口として機能し、日本とヨーロッパなどを行き来する人々で賑わいました。今回、137年の歴史に幕を閉じますが、跡地の活用計画も進んでいます。
『いだてん』もユダヤ人難民も降り立った敦賀港
福井県敦賀市にあるJR北陸本線の貨物支線、通称「敦賀港線」が、2019年4月1日(月)に廃止されます。
敦賀駅と敦賀港駅のあいだ2.7kmを結ぶこの路線は、化学工業品や食料工業品の輸送に使用されていましたが、発送量の減少にともない2009(平成21)年に貨物列車の運行が休止。敦賀港駅を拠点に、列車ではなくトラックで貨物を輸送する方式に切り替えられました。線路施設を所有するJR貨物は、輸送需要の拡大に取り組んだものの「列車の運行再開に見合う需要を見込めない」ことなどから、休止状態だった敦賀港線を今回、正式に廃止するとしています。
この敦賀港線は1882(明治15)年に開業した古い路線です。敦賀港への鉄道は明治維新後にいち早く必要とされ、1869(明治2)年に発表された日本初の鉄道建設計画でも、現在の敦賀港線を含む「琵琶湖畔~敦賀」が東京~京都間の支線として記載されていました。
そして1912(明治45年)、敦賀港駅は「大陸への玄関口」としての役割も担うことになります。この年、敦賀港とウラジオストク(ロシア)を結ぶ客船に連絡する「欧亜国際連絡列車」の運行が開始され、ウラジオストクからさらにシベリア鉄道を経由し、ヨーロッパへ向かうルートが確立したのです。この経路は本格的な外交を始めた日本にとって重要な役割を果たし、同年には、オリンピックに派遣された初めての日本選手団(金栗四三選手、三島彌彦選手)が敦賀港から客船「鳳山丸」で開催地のストックホルム(スウェーデン)へ向かっており、その様子は2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』にも描かれています。
1917(大正6)年にロシア革命が始まると、作曲家のセルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)をはじめロシアの芸術家などが多数、亡命のため敦賀港へ上陸。その頃の欧亜連絡列車や日本の様子は、プロコフィエフの『日本滞在記』(群像社刊『プロコフィエフ短編集』)に描かれています。第二次世界大戦中には、ナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民も、リトアニアのカウナス領事代理だった杉原千畝が発行したビザを手に敦賀港へ。そこから日本国内を通過し、世界各国へ避難していきました。
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