強みは速さ、戦艦「金剛」の一部始終 30年以上戦い抜いた旧海軍最後の「帰国子女」
戦艦「金剛」は、その同型艦と共に「高速戦艦」とも呼ばれ、ほかの戦艦よりも一段上の速力が特徴です。ゆえに空母を中心とする機動部隊の随伴も務めるなど、太平洋戦争中も出番の多い戦艦でした。「金剛」の一部始終を追います。
時は明治、「ド級」ショックが世界を駆け巡る
旧日本海軍の戦艦「金剛」は、海戦の主役が「戦艦」から「空母」へ移った太平洋戦争においても、ほかの戦艦に比べ実に多くの場面で運用されたといえるでしょう。当時すでに古参艦といえる艦齢を重ねており、建造されたのは明治から大正にかけてのイギリスでした。
日本が初めて挑んだ対外戦争、日清戦争で勝利したのが1895(明治28)年のこと。それから10年後に起きた日露戦争では、世界中が注視するなか、大国ロシアに勝利し、各国の度肝を抜きました。この勝利の一因となったのが、かの有名な「日本海海戦」で、これにより日本は一躍、海軍国として名を馳せるまでに至ったのです。
このとき、日本国内でも戦艦の建造はできるまでになっていました。実際、日露戦争終結前後に起工された薩摩型戦艦2隻(「薩摩」「安芸」)は、横須賀と呉の両海軍工廠で建造されました。しかし、この薩摩型戦艦を建造中の1906(明治39)年に、イギリスは「ドレッドノート」という革新的な戦艦を就役させ、建造中だった薩摩型戦艦は竣工前に早くも旧式の烙印を押されることになったのです。この影響により、1907(明治40)年に建造が決まっていた「金剛」は、イチから計画やり直しとなります。
当時は、まさに軍艦、特に戦艦の建造ラッシュでした。イギリスがその大きさも攻撃力もけた違いな戦艦「ドレッドノート」を建造すると、その流れに拍車がかかり、「『ドレッドノート』と同じくらい凄い」ド級戦艦や「『ドレッドノート』を越える能力を持つ」超ド級戦艦が次々と造られるようになっていきます。
日本もその流れに乗って、「『金剛』をド級戦艦に!」「いや超ド級戦艦に!」と揉めた挙句、計画は変更に変更を重ね、予算が通ったのは計画立案から3年も経った後のことでした。
記事タイトルに「帰国子女」とありますが、イギリスで建造された後に日本にやって来た軍艦ですので、後に日本国籍を取得(帰化)したというのが正しいと思われます。(なお、かの軍艦三笠も同じ経緯をたどっています)