世界のビッグ7、戦艦「長門」の一部始終 旧海軍の象徴がビキニ環礁に沈むまで

「世界7大戦艦」のひとつに数えられた「長門」

「長門」の完成直後、「ワシントン海軍軍縮条約」が採択され、世界の海軍は「ネーバルホリデー(海軍休日)」と呼ばれる時代に突入します。これは、列強各国とも行き過ぎた大艦巨砲主義によって国家予算が圧迫され、経済に悪影響が出てきたために締結された条約です。

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1931年3月、別府湾で撮影された日本海軍の戦艦群。手前から、「長門」、「霧島」、「日向」、「伊勢」(画像:アメリカ海軍)。

 これにより、41cm以上の主砲を搭載した3万5000トン以上の大型戦艦の建造は制限されたため、長門型2番艦の「陸奥」は、同条約によって廃艦になるのを防ぐために、未完成の状態で日本海軍へと引き渡されました。そして、当時建造された大型戦艦、日本の「長門」と「陸奥」、イギリスの「ネルソン」と「ロドニー」、アメリカの「コロラド」と「メリーランド」「ウェストバージニア」、この7隻を指して「世界のビッグ7(世界7大戦艦)」という言葉まで生まれたのです。

 わずか10年前まで、大型戦艦の建造技術を持たず、イギリスの力を借りて戦艦を建造していた日本が、(「ワシントン海軍軍縮条約」という時代の流れがあったとはいえ)世界のトップ7に名を連ねる巨大戦艦を2隻も造り上げたのです。あっという間に「長門」と「陸奥」は、「日本海軍の象徴」「日本の誇り」として、国民から親しまれていくようになります。

 その「長門」の最初の見せ場は、戦場ではなく災害派遣でした。1923(大正12)年9月に起こった「関東大震災」です。

 当時、中国北東部の渤海湾で演習中だった「長門」をはじめとする連合艦隊は、すぐさま救援物資を積載し、東京へと向かいました。ただし、前述したように「長門」の公表最高速度は23ノット。しかし実際には26ノット以上のスピードが出せたといいます。外国の軍艦にその秘密であるスピードがばれないように、外国船が近くにいるときにはスピードを落とし、ほかの船が周囲にいなければスピードを上げて、東京へと急いだといいます。こうして大災害に見舞われた東京に駆けつけました。

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1930年頃の長門(画像:アメリカ海軍)。
1938年に撮影された「長門」の艦橋部分のアップ(画像:アメリカ海軍)。
1930年代後半、青島にて。大規模改装後で煙突が1本に(画像:アメリカ海軍)。

 その後、大規模な改装を繰り返し、装甲や機銃の増設などが行われます。一番の変更点は「屈曲煙突」の設置で、排煙問題が解消されたため、この煙突の形状は以後の艦艇建造の主流となっていきました。

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