世界のビッグ7、戦艦「長門」の一部始終 旧海軍の象徴がビキニ環礁に沈むまで

戦後にたどった数奇な運命

 太平洋戦争が勃発すると、「長門」は連合艦隊の旗艦として、「陸奥」と共に第一戦隊へ所属しました。真珠湾への攻撃命令「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文もこの「長門」から打電されました。

 しかし、その後「長門」の出番は極端に減っていくことになります。実際、大艦巨砲主義の時代は終わりを迎えつつあり、空母や潜水艦を相手とした演習では苦戦することが多くなりました。

 そして長門型を凌ぐ大型の新鋭戦艦「大和」が就役すると、旗艦は「大和」へと移され、「ミッドウェ―海戦」後には第1戦隊から第2戦隊へ移管され、以後は日本本土で待機することが多くなります。

 1944(昭和19)年10月、「長門」は「レイテ沖海戦」に参加しますが、大きな活躍はできず、以後人員輸送や給油活動がおもな任務となりました。そして1945(昭和20)年8月の終戦、「長門」は空襲により中破してはいたものの、日本海軍で唯一生き残った(航行可能な)戦艦となりました。

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1944年10月21日ブルネイ泊地にて。「レイテ沖海戦」に向かう前(画像:アメリカ海軍)。
終戦直後の1945年9月9日、横須賀にて。偽装のため後部マストが切られている(画像:アメリカ海軍)。
1946年7月25日ビキニ環礁での水爆実験。海面に多数の艦艇が見える(画像:アメリカ海軍)。

 アメリカに接収された「長門」は、さらに数奇な運命をたどることになります。終戦翌年の3月、アメリカの核実験の標的艦となるため、「長門」はマーシャル諸島に向けて出港しました。

 目的地のマーシャル諸島ビキニ環礁へ到着すると、アメリカの戦艦「ネバダ」や日本の軽巡洋艦「酒匂」などとともに核実験の標的とされました。2回にわたる大爆発を受け、それでも「長門」は沈みませんでした。これに対し日本では、「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」などともてはやされましたが、ほかにも数多くの艦艇が沈むことなく残っていたので、一概にはいえません。

 そして、「長門」は2度被爆した翌日の夜、誰にも知られることなくひっそりと沈没しました。爆発の衝撃からゆっくりと浸水が広がっていたものと思われます。翌朝、関係者が確認すると、すでに海上に「長門」の姿はなかったといいます。

「長門」は現在、海底で静かに眠り続けています。核実験から65年、いまではこの海域は、沈船が多いことから有名なダイビングスポットとなっており、観光客に人気の場所に様変わりしています。戦前、「ビッグ7」としてもてはやされたほかの大型戦艦もすでになく、海中に没しているとはいえ、「ビッグ7」のなかで現在も見ることができるのは、いまやこの「長門」だけだといいます。

【了】

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