発見された旧軍の重巡「古鷹」 設計と建造で混乱、条約にも翻弄されたその紆余曲折
軍縮条約で中途半端な重巡洋艦に
起工直後の1922(大正11)年に批准された「ワシントン海軍軍縮条約」で、巡洋艦の定義は、基準排水量1万トン以下、主砲口径12.7cmから20.3cmまで、とされます。上限1万トンと定められた条約下では、古鷹型の8000トン級というのは中途半端なものだったことは否めません。ゆえに古鷹型は、1個戦隊を組むのに必要な最小限4隻(「古鷹」「加古」、準同型の青葉型重巡洋艦「青葉」および「衣笠」)が建造されたのみで、それ以降、建造されるのは1万トン級の重巡洋艦になります。
さらに1930(昭和5)年10月に批准された「ロンドン海軍軍縮条約」では、主砲口径15.5cmから20.3cmをカテゴリAと規定し、これを日本では「重巡洋艦」と称しましたので、「古鷹」は重巡洋艦となります。ちなみに主砲口径が13cmから15.5cmはカテゴリB、日本では「軽巡洋艦」と称するようになります。
1万トン級重巡洋艦が主流になってくると、「古鷹」も旧式化は否めなくなり、1937(昭和12)年から1939(昭和14)年にかけ大規模な改修を実施します。武装は青葉型とほぼ同じ20.3cm連装砲塔3基6門とし、魚雷発射管を艦内から上甲板に移設し61cm4連装魚雷発射管2基8門となり、九三式魚雷(秘密兵器の「酸素魚雷」)が使用できるようになり、排水量も8700トンに増加し外見が一新しました。
ちなみに設計者の平賀 譲 造船少将(大佐から昇進)は、砲塔の更新は艦のバランスが失われると大反対したため、現場部隊の幹部たちが平賀少将を海外視察に「追い出して」しまい、その隙に改修を実施したという、当時の海軍内の力関係をうかがい知るようなエピソードもあります。
太平洋戦争が勃発すると、「古鷹」は冒頭で触れたように、空母を中心とする機動部隊などで活動しましたが、ガダルカナル島攻防戦のなか、1942(昭和17)年10月11日に生起した「サボ島沖海戦」でアメリカ巡洋艦隊と夜戦となり、砲撃戦の末、翌12日の0時28分に戦没しました。
【了】
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