整備員はなぜ飛ぼうとした? 知られざる「航空自衛隊機乗り逃げ未遂事件」の顛末
自衛隊の航空機が乗り逃げされるとなると大事件であり、1973年に起きた「自衛隊機乗り逃げ事件」は広く知られますが、その影に隠れ後世にあまり知られていない事件があります。1962年6月に起きた「航空自衛隊機乗り逃げ未遂事件」です。
生まれ故郷のハルビンに行きたかった
南満州鉄道(満鉄)職員を父に持つTは、中国東北地方のハルビンに生まれ、1946(昭和21)年に家族と宮城県へ引き揚げるまでそこで暮らしていました。高校卒業後は航空自衛隊に入隊し、航空自衛隊整備学校(現・第1術科学校)で教育を受けた後は、整備員として勤務していました。
職場では目立たない男だったというTでしたが、日頃から「ハルビンに行きたい」と周囲に漏らしていました。しかし当時、日本と中国(中華人民共和国)とのあいだに国交はなく、ハルビンに行くことはまず無理でした。
そこでTは、自衛隊機でハルビンに向かうことを計画しました。
用意周到な計画、本人を除いて
Tはハルビン行き実行にあたり、松島基地内にあったF-86F戦闘機の、脚上げスイッチのリード線を切断します。これは自分を追跡できないようにするための工作で、計画的な犯行であったことをうかがわせます。
しかし、Tは飛行機の整備技能はあっても、操縦経験はありませんでした。T-33Aのエンジンを始動させ、滑走路まで移動し、2400mを滑走して離陸することには成功するものの、離陸後10mで基地内に墜落。ハルビン行きは失敗し、Tは逮捕されました。
コメント