異様にツイてる駆逐艦「雪風」のヒミツ 旧海軍屈指の強運はいかにしてもたらされた?

管理職にとってはブラック職場?

 しかし、こうした元気な「ホワイト職場」を統率するのは大変です。太平洋戦争中、「雪風」の艦長を務めた4名は全員生還していますが、交替の理由は3回とも激務による過労で艦長がダウンしてしまったことによるものです。開戦時の艦長 飛田健二郎中佐などは1942(昭和17)年6月23日の退艦の際、担架に乗せられそのまま病院に直行したともいわれています。ホワイト職場の「雪風」は、管理職にとっては「強運艦」の矜持と部下からの突き上げというプレッシャーの厳しい「ブラック職場」だったようです。

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連合軍に接収後、1947年5月26日に撮影された「雪風」の機関制御室。アナログな計器が並ぶ(画像:アメリカ海軍)。

「雪風」は戦後、復員船となったのち賠償として連合国に引き渡されることになり、1947(昭和22)年7月6日、中華民国に引き渡されて「丹陽(タンヤン)」と改名されます。中国の国共内戦では1958(昭和33)年8月に、中国共産党軍艦とも交戦しています。1965(昭和40)年12月16日に退役。そののち解体され、1971(昭和46)年12月8日に舵輪と錨が返還されて広島県江田島の海上自衛隊第1術科学校に、スクリューは台湾の左営にある海軍軍官学校に展示されます。

 日本人は「空気感」を気にしすぎる感はありますが、閉鎖された艦内の社会ではこの「空気感」は運命を左右する大事なファクターかもしれません。「雪風」は戦後もあるじを変えて最後まで任務を全うし、日本と台湾に残る記念品はいまもその「空気感」を伝えているようです。

【了】

※一部修正しました(9月13日13時00分)。

【写真】アナログ計器や伝声菅が並ぶ駆逐艦「雪風」のブリッジ内観

Writer: 月刊PANZER編集部

1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。

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コメント

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3件のコメント

  1.  阿川弘之氏は元海軍少尉ではなく、元海軍大尉だったと思いますが?
     雪風は単に「1965(昭和40)年12月16日に退役。そののち解体」ではなく、(日本への返還が決まっていたがその前に)座礁し修理をあきらめ退役、解体。
     その為、舵輪と錨が返還された。のでは?

  2. 寺内艦長が爆弾回避の上手い人だったのは事実のようだけど、それだけで生き残れるものでもない。最後の天一号作戦時の第一遊撃部隊の陣形図が大和ミュージアムにあるから見てみると興味深い事に気づく。ネットでも調べたら出てくるから、雪風が生き残れた理由を色々推理してください。

    • いやそこは教えてくれよ。そんなとこまで行く暇ないよ涙