東京オリンピック道路「環七」、オリンピックであまり役に立たなかったナゾ
選手村は代々木ではなく、朝霞に設ける予定だった
ではなぜ、環七がオリンピックを機に整備されたのでしょうか。謎解きの鍵は、選手村予定地の変更にあります。
1964年の「東京オリンピック」は、1959(昭和34)年5月のIOC総会で開催が決定されました。それを受け、当初選手村を、埼玉県朝霞の米軍基地、キャンプドレイク・サウスエリア(現・陸上自衛隊朝霞駐屯地など)に計画します(1960年12月組織委員会決議)。この場合、当時未開通の環七は、羽田空港から選手村、そして選手村から各競技施設などを結ぶ超重要道路となります。都心の北西にある選手村から環七での南北の移動が必要となるわけです。
朝霞に選手村を設けた場合、主会場から約20キロ離れていてやや遠いのですが、各オリンピック道路が整備され適切な交通整理が行われれば、自動車で約40分で行けるということで、問題なしとされました。
当時日本政府は、キャンプドレイクの他に、米軍の兵舎・家族用居住宿舎などとなっているワシントンハイツ(現・代々木公園など)の返還も米国に求めていました。都心にあるワシントンハイツの返還は可能性が低いと踏んでいたようですが、予想に反して1961(昭和36)年12月、米国がワシントンハイツ全面返還に応じる回答を出してきました。
それにより選手村を代々木のワシントンハイツの地に変更します。やはり朝霞よりこちらのほうが、開会式の行われる国立競技場(神宮外苑に隣接し現在、新国立競技場が建設されている地)ほか多くの会場へ便利な立地です。
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