敵艦も味方艦も日本製! レアケースに見舞われた戦前の輸出艦「寧海」「平海」の顛末
「加賀」から空襲を受けた寧海級姉妹艦 最期は日本艦として
開戦後「寧海」と「平海」は揚子江上流に回航され、南京と上海の中間にある揚子江沿いの地、無錫(むしゃく)の江陰要塞に停泊します。上海から南京攻略を目指す日本軍にとって、砲艦とはいえ軽巡並みの火力を持つ2艦は脅威でした。
1937(昭和12)年9月22日から23日にかけ、日本海軍は空母「加賀」と上海基地の航空隊で両艦を攻撃し、2艦とも炎上擱座させます。2日間、6次にわたる波状攻撃という、日本製兵器同士の熾烈な戦闘でした。
中国軍が後退した12月5日に日本軍は2艦を捕獲、1938(昭和13)年に引き上げられ上海で修理後、「寧海」は播磨造船所相生工場、「平海」は呉工廠へ曳航されます。特設巡洋艦への改装が検討されていたようですが、外洋航行に向かない2艦の改装は不要不急とされ、事実上、放置状態となっていました。
1944年(昭和19)年2月、悪化する戦況のなか海上護衛戦で不足する護衛艦艇を補強するため、放置されていた「寧海」「平海」も海防艦への改装工事が行われます。外洋航行に耐えられるよう復原性を確保するため、大きな艦上構造物は一新されました。主砲の三年式14cm連装砲塔、大型前楼は撤去され、高角砲と対潜装備を追加し艦橋も小型化されます。
こうして同年6月、「寧海」は「五百島(いおしま)」、「平海」は「八十島(やそしま)」として日本海軍に編入されました。駆逐艦より大きな艦体であり、海防艦としては船内容積に余裕があったので、海防艦から二等巡洋艦へ類別変更して輸送戦隊旗艦となることが予定されますが、「五百島」は変更直前の9月19日に戦没、「八十島」も変更直後の11月25日に相次いで戦没してしまいます。
敵艦を鹵獲して自軍に編入し再利用することはよくあることでしたが、この姉妹艦の生い立ちと運命は数奇です。
【了】
Writer: 月刊PANZER編集部
1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。
>>戦前の日本は発展途上国であり、自国の兵器調達にも汲々としていたようなイメージがありますが
戦前というのは具体的に何年の事を言っているのかはわかりませんが、寧海と平海が建造された20年ほど前にはすでに日本は列強になっていたので、少なくとも発展途上国という表現はおかしいです。
表現や解釈の違いという問題ではなく明らかに事実と異なっていると思います。
工業生産力では結局、終戦まで欧米の足元にも及ばないレベルでした。だから負けたのです。”立派な”発展途上国です。