ポルシェ博士と「軍用車」 奇抜すぎることで知られる戦車の一方で本職のクルマは…?
最初にポルシェ博士に注目したのはスターリンだった!?
ポルシェ博士は1875(明治8)年9月3日、オーストリア=ハンガリー帝国のマッフェルスドルフ(2020年現在はチェコ共和国内)にブリキ細工職人の子どもとして生まれました。成人してからは、オーストリアで自動車製造に関わり、1900(明治33)年4月14日に「パリ万国博覧会」で「ローナーポルシェ」を公開します。この車両は車輪のハブにモーターを搭載したもので、現代のハイブリット車が装備するインホイールモーターの先駆けといわれています。
第1次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗戦し、崩壊すると、紆余曲折を経たのち大衆車の開発を夢見てドイツに移り、1931(昭和6)年(1930年説もあり)にはシュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行なうポルシェ事務所を立ち上げます。
しかし、意外なことに、最初にポルシェ博士の能力を高く評価したのはドイツではなくソビエト連邦でした。1932(昭和7)年にソ連を訪問した際、ヨシフ・スターリンに、自動車や航空機、戦車、トラクターなどを開発する「国家設計家」という破格の待遇で迎える用意があると伝えられたそうですが、ソ連では大衆車の開発は難しいだろうと断っています。その後、1933(昭和8)年1月にドイツでナチスが政権を獲ると、ヒトラー政権の目玉のひとつとして大衆車生産が掲げられ、その開発をポルシェ博士は依頼されることになります。
結局、この大衆車の開発に関してはヒトラーが「KdFワーゲン」と命名し、それを生産する街「KdFワーゲン市(現ヴォルフスブルク)」も1938(昭和13)年に作られますが、直後にドイツは戦争状態に突入し、本来KdFワーゲンを作るために建造された工場は軍用に転用されます。
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