砂利鉄道から旅客路線へ ローカル情緒ある西武多摩川線 かつての名残はどこにある?
砂利鉄道の名残は? 駅脇の貨物線スペースや切り通し
川の砂利など、すぐに採り尽くしてしまいそうですが、多摩川は太古の昔から流路をあちこちと変える暴れ川でした。そのため、河道以外でも大昔は川だった所が広範囲で存在します。そこには砂利が埋まっています。たとえば多摩川ボートレース場は、桑畑だった所を砂利採掘して、できた大きな窪地を戦後に整備してオープンさせたものです。
西武多摩川線では、常久(現・競艇場前)駅と是政駅が砂利の発送駅でした。1924(大正13)年は、常久駅から年間11万8223トン、是政駅から2万6219トンの砂利を発送しています。両駅とも現在、線路の隣に線路数本分の空きスペースがあるのは、かつての貨物用線路の跡です。
採掘場となる川は周囲より低い所にあるため、砂利運搬の鉄道は、重たい砂利を積んで勾配を上らなければならない宿命を背負っています。機関車が現在より非力だった当時としては、これは大きな問題でした。上り勾配がきついと、機関車が牽引(けんいん)できる貨車の両数が極端に減ってしまうのです。
西武多摩川線では、競艇場前~白糸台間と多磨~新小金井間で段差のある地形が行く手をさえぎるように現れます。そこを11.1‰(パーミル:水平距離1000mあたり11.1m上る)という比較的緩い勾配で越える線路設計がなされています。たとえば新小金井駅(東京都小金井市)付近では、線路の両側を切り通しとする区間を長くとり、勾配を緩やかにしています。
時代を経るにつれ、たくさんあった砂利をとうとう掘り尽くし、また戦後は砕石が主となったこともあり1964(昭和39)年、多摩川での砂利採掘が禁止されます。西武多摩川線の砂利輸送もこの頃に終焉を迎えました。
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Writer: 内田宗治(フリーライター)
フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。
多摩川でももっと下流の武蔵小杉では旧河道を考慮せずにタワーマンションを建てたのではないかとTVで言っていた。