戦時ゆえの「艦載機使い捨て」! 英国と敗北寸前の日本が浮かべた急造空母の顛末
実はイギリスより少しマシな旧日本海軍の「爆撃機使い捨て」計画
日本海軍の「使い捨て空母」計画は、1942(昭和17)年のミッドウェー海戦における空母4隻喪失という敗北からの航空戦力回復を目的とし、次の「艦隊決戦」へ備えるために実行されました。
航空機の台頭により価値を喪失した戦艦「伊勢」「日向」を航空機搭載艦化することで、「彗星」艦上爆撃機を22機、合計で44機を搭載し射出するという計画であり、ミッドウェーで喪失した空母はおおむね戦闘機20機+爆撃機・攻撃機40機だったので、1回だけとはいえ空母1隻ぶんと同等の攻撃力は用意できる見込みでした。
日本海軍がイギリス海軍よりいくらか「マシ」であったのは、艦隊決戦時に空母(「隼鷹」「龍鳳」)と併用することで、発艦した「彗星」が少なくとも着艦はできる見込みだったことです。仮に全機が帰還できたとしても、僚艦に着艦した後に順次、機体だけ捨ててしまえば、パイロットは安全に戻ることが可能であるはずでした。また「彗星」より100km/hも遅かったものの、回収・再利用も可能な水上機「瑞雲」も計画に加わりました。
1944(昭和19)年6月に「彗星」「瑞雲」両機の射出試験に成功、1944年8月末にはいよいよ実戦への投入が可能となりましたが、10月に発生した「台湾沖航空戦」においてすべての「彗星」「瑞雲」が基地航空隊へ引き抜かれてしまい、以降「伊勢」と「日向」に艦上機が戻ることはなく、結局、終戦まで一度も実戦で使用されることはありませんでした。
イギリスは「商船護衛」のため、日本は「艦隊決戦」のためという用途の違いはあれど、厳しい戦況における空母不足から「使い捨て空母」を計画し実用化したという、切羽詰まった島国の事情は似ていたといえるかもしれません。
【了】
Writer: 関 賢太郎(航空軍事評論家)
1981年生まれ。航空軍事記者、写真家。航空専門誌などにて活躍中であると同時に世界の航空事情を取材し、自身のウェブサイト「MASDF」(http://www.masdf.com/)でその成果を発表している。著書に『JASDF F-2』など10冊以上。
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