旧海軍の一式陸攻は本当に「ワンショットライター」なのか 覆るかもしれないその評価
一式陸攻 その初期型から防弾装備はあった…?
この判断には、一式陸攻は元々、九六式陸上攻撃機が敵戦闘機の迎撃により喪失が増えたことを教訓に作られており、“1941(昭和16)年当時の基準では”高高度を高速で飛ぶことができた、という背景があります。『戦史叢書79巻 中国方面海軍作戦(2)』(防衛省防衛研究所)には、一式陸攻の初陣である成都方面への攻撃において、敵機および敵対空砲圏外で爆撃ができたと記載されています。前出の『一式陸攻戦史』にも、図太い胴体でいい的だと思ったが、乗ってみると高速・高高度性能が高かったという電信員の言葉が記されています。
そして、一式陸攻の損害が増え始めたといわれる1943(昭和18)年以降はインテグラルタンクにも防弾ゴムが施され、さらに消火装置も装備され、被弾後の火災についても対策が取られるようになりました。
武装も、開発当初から7.7mm機銃4丁と尾部に20mm旋回機関銃1丁を備えるなど、当時の基準ならば問題ない火力で、後の改良型には13mm機銃や20mm機銃の追加搭載も行われます。
ではなぜ、一式陸攻が特段、脆いイメージをもって語られるのでしょうか。
これは仮説ですが、同機が護衛機をともなわず、やむを得ず出撃する機会が目立つ、という点がその理由のひとつとして考えられます。戦争序盤の1942(昭和17)年2月20日に発生したニューギニア沖海戦では、ラバウル空襲に失敗した空母「レキシントン」を中核とする第11任務部隊を追撃する形で出撃した一式陸攻17機が、艦載機の反撃に会い13機を撃墜され、2機を不時着水で喪うという大損害を被ります。この戦いが「ワンショットライター」というあだ名の生まれた説のひとつともいわれています。
しかし当時は、世界中で提唱されていた、高速の爆撃機に重火力の防御をほどこせば撃墜されないという「戦闘機無用論」の名残がまだあった時代でした。イギリス軍なども第2次世界大戦勃発直後から、ウェリントン爆撃機をドイツ本土や北海へ護衛機をともなわない形で出撃させ、1939(昭和14)年12月の段階で作戦参加機の半分以上を喪うという、大損害を被っています。
細かな事ですが、インディペンデンスは護衛空母ではなく軽空母ではないでしょうか?
米海軍の公式艦種としてCVEではなくCVLのはずです
かの山本五十六司令長官乗機の一式陸攻が撃墜された際も
墜落した機体自体や司令長官らの遺体は延焼してた様な話は無い様ですし、
特段に燃え易い機体ではなかったかも知れませんね。
後の創作や脚色による影響が多分にあるのだと思われます。
「フライングシガー」は燃えやすいからというより
葉巻型の機体を揶揄しているだけの可能性もありそうですね。
すでに水杯を交わし、特攻の出撃予定が、八月二十四日。
終戦が、八月十五日。
一式陸攻の操縦員だった父の話。
山本五十六の撃墜された時の話。
次の日の捜索に参加。
真っ黒こげの死体をこの目で見たとの証言。
おべっかも忖度もしない父、父の証言こそ真実。
己が搭乗の一式陸攻。グラマンに攻撃されて、
操縦をあきらめた機長。艦爆乗りであった私の父が操縦を引き継ぎ。
きりもみ飛行等で追撃をかわし、平常飛行に戻った時、
先ほどのグラマンが近づき、ああ、もうこれで最後と覚悟した時、
操縦技術に感嘆したのか、
近づいたグラマンのパイロットが敬礼をして飛び去った。
敵同士であっても、
パイロットとしての矜持をお互い持っていた。
酒を飲むと漢詩を吟じる父が、語った話である。
爆撃機は一式陸攻に限らず鈍足で航続距離が長いため、戦闘機にとっては格好の標的だった。「空飛ぶ要塞」B-17などはドイツ空襲に就いていける戦闘機が長くおらず、1000機以上が撃墜されている。P-51ムスタングが登場して護衛に就くのは44年の後半のWW2末期で、その頃には東部戦線を始め戦争の勝敗はわかっていた。B-29が現れるのもその頃で、わたしたちのイメージでは爆撃機は護衛の優秀な戦闘機が付随するものと勘違いしている。
米軍からは一式陸攻は頑丈でなかなか撃墜できない爆撃機と高く評価されている。ただ、当時の爆撃任務の宿命で護衛戦闘機を揃えるのも一苦労だった日本の物資の少なさから、生きて帰れない爆撃機隊単独飛行が多かったために付けた搭乗員からの本音だったろう。
ゼロ戦(やはり大戦中から言われていた)などもそうだが開発当初にはそれほど防弾思想が発達してなかった。当時は高速性能が高かったためで、結局は新型兵器を次々繰り出してくる米軍の圧倒的な開発能力と生産力に負けたと思う。