早すぎたデジタル迷彩!? 七色の61式戦車が誕生したワケを“生みの親”に聞いた
第2次世界大戦後、国産初の主力戦車として開発された61式戦車は、陸上自衛隊の過渡期に生まれた装備ゆえに迷彩塗装の試験にも用いられました。そのなかでテストされた7色の迷彩車両について、実際に考案した隊員に話を聞きました。
旧日本軍戦車のDNAを受け継ぐ新戦車の誕生
今でこそ、10式戦車や16式機動戦闘車を始め、陸上自衛隊が装備する装甲戦闘車両のほとんどはダークグリーンとブラウンの2色迷彩で運用されていますが、この迷彩塗装が定められたのは1980年代半ばのこと。色彩や迷彩パターンが決まるまで、陸上自衛隊では様々な迷彩を作り出し試験していました。その試験で数多くのテスト迷彩が施されたのが、自衛隊初の国産戦車、61式戦車です。
そもそも61式戦車が生まれたきっかけは、朝鮮戦争の勃発といえるでしょう。1945(昭和20)年8月に太平洋戦争が終結し、敗戦国の日本は軍備を放棄します。日本を占領したアメリカも、日本の戦車に関する開発・生産技術を、いったんは凍結しました。
しかし1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争を契機に、アメリカは方針を転換、日本の再軍備を望むようになり、陸上自衛隊の前身である警察予備隊が発足したのち、1952(昭和27)年からアメリカ製M24軽戦車の供与が始まります。
警察予備隊はその後、保安隊を経て1954(昭和29)年に陸上自衛隊へと姿を変えます。そのなかで、アメリカはM24軽戦車よりも強力かつ大型のM4A3E8中戦を供与するようになり、陸上自衛隊の戦車戦力は急速に拡充されていきました。
ただ、これらアメリカ製戦車は当時の日本人の体格には合わず、また性能的にも当時、最新のソ連戦車と比べて見劣りするものでした。そこで国情に合った新戦車を独自に開発しようという気運が国内で徐々に高まったことで、1955(昭和30)年に開発が始まります。
この頃、戦前戦中に数多くの戦車を開発・生産した三菱重工は、戦争の続く朝鮮半島から後送されてくるアメリカ軍戦車の修理やオーバーホールの経験で技術を蓄積しており、それは国産戦車の研究にプラスとなりました。それでも戦後の一時期、戦車の開発・生産を止めていた影響から開発は一筋縄では行かず、1961(昭和36)年にようやく61式戦車として完成したのでした。
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