明石海峡大橋の「新幹線計画」が幻に終わったワケ 今も残る「謎の巨大空間」
高度経済成長期に夢見た徒花か
このように姉妹橋の鳴門大橋には新幹線を通すためのバッファーがちゃんと用意されているのですが、なぜか明石海峡大橋の方は、2層式による新幹線の敷設は最終的に白紙となってしまいました。
最大の理由は「費用対効果」だと言われています。本四架橋プロジェクトは高度経済成長末期の1970年代初めに盛り上がりを見せますが、1973(昭和48)年の石油ショックで一転します。
莫大な建設費(当時「1ルート・1兆円」と言われていた)はもちろん、四国の有力政治家による我田引水ならぬ“我田引橋”がまかり通って、瀬戸内海に合計3本の連絡ルートを建設し、うち最低でも2本を道路・鉄道併用橋(在来線共用)とする構想が出されていました。
ただし、さすがの政府もこれは「無理・無茶・無謀」と危機感を抱いたようです。すでに国鉄の赤字は天文学的数字で、分割民営化は避けられない状況に陥り、本四連絡橋の運営を国鉄が引き受けるなどもっての外の状況でした。それ以前に採算性を度外視した「政治路線」の発想はもはや時代が許さない状況で、四国の人口規模を考えれば四国新幹線の黒字化は「夢のまた夢」であったのです。
最終的に道路鉄道併用橋は現行のように瀬戸大橋1本だけとし、しかも鉄道は在来線だけで新幹線敷設は中止、という姿で決着したわけです。
それでも四国の政治家や地元は最も採算性が望めそうな神戸・鳴門ルートでの新幹線敷設に固執しましたが、逆にこのままの状態では吊り橋の完成は延期するばかりでいつまでたっても橋はかからない、という危機感から、ついに道路鉄道併用橋を諦め道路単独の吊り橋へと大きく舵を切りました。
そして地元を説得させるためだったのでしょうか、大鳴門橋のほうは将来新幹線を敷設できる設計とし、1985(昭和60)年に開通。一方で、明石海峡大橋の方は「中央支間が極めて長く、技術的にかなり難しい工事になる」や「新幹線を敷設しても本州側の山陽新幹線の新神戸駅にスムーズにアクセスできるほどの距離がない」などを理由に、最終的に幻となってしまいました。
ちなみに「四国新幹線」構想自体はまだ地元四国で息づいており、瀬戸大橋を活用する案を中心として、現在でも地元政財界で検討や国への要望が続けられています。
【了】
Writer: 深川孝行
1962年、東京生まれ。法政大学文学部地理学科卒業後、ビジネス雑誌などの各編集長を経てフリージャーナリストに。物流、電機・通信、防衛、旅行、ホテル、テーマパーク業界を得意とする。著書(共著含む)多数。日本大学で非常勤講師(国際法)の経験もある。
大鳴門橋には南海電車を走らせようよ、紀淡海峡どう渡るか見当つかないけど