JR山手線内側の「廃線」をたどる 新国立競技場にかつて“駅” 響いていた軍靴の音

短絡線を通り、いざ大陸への玄関口へ

 橋の上に立って千駄ケ谷方向(西側)を向いた場合、右手(北側)に慶應大学病院など、左手には新国立競技場や神宮球場などがある明治神宮外苑が広がっています。時期により施設は異なるものの、明治時代から大正時代にかけて慶應大学病院周辺は、陸軍輜重(しちょう)兵営や兵器支廠倉庫などでした。前出の青山練兵場は、明治神宮外苑に位置します。ちなみに輜重とは、前線に補給する武器・弾薬などの軍需品のことです。

 青山停車場があった時代には、大番町通陸橋のほか、そこからそれぞれ千駄ケ谷方向と信濃町方向へ50mほど離れた地に、輜重廠前陸橋と輜重兵営前陸橋が架けられていました。それらの橋を渡って、戦地へ赴く兵士たちは青山停車場へと向かったことでしょう。ただ、現在の大番町通跨線道路橋は、信濃町~代々木間が複々線となった1927(昭和2)年頃の竣工と推定されます。

 青山停車場を出た軍用列車は、広島県の宇品港へと向かいます。新宿駅でスイッチバックして山手線の渋谷方面に向かい、現在の大崎駅付近から分岐する1.4kmの短絡線「品川西南線」を通り、現在の京浜東北線 大井町駅付近から東海道線へ入りました。なお1894年8月以前は品川駅まで行ってからスイッチバックしていましたが、これでは方向転換のたび先頭の機関車を付け替える必要があり非効率だったため、先述の短絡線が建設されたのです。

 また、当時の横浜駅は現在の桜木町駅の場所にあり、ここでもスイッチバックが必要だったため、神奈川~程ヶ谷(現・保土ヶ谷)間の短絡線(神奈川程ヶ谷直通線、3.5km)が同年12月に造られました。

【写真】「青山練兵場停車場」の様子

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