JR山手線内側の「廃線」をたどる 新国立競技場にかつて“駅” 響いていた軍靴の音
廃線跡は外苑西通りから見える側線ではない
青山停車場への陸軍省専用線は、日清戦争後いったん廃止されましたが、1897(明治30)年、英照皇太后(明治天皇の嫡母)の霊柩列車運転のため甲武鉄道が再度開設しました。さらに1912年、明治天皇の大喪の礼が青山練兵場で行われ、霊柩を伏見桃山陵(京都市伏見区)へと運ぶ大喪列車が運行されています。
その後、この線路は廃止されていましたが、青山練兵場を明治神宮外苑とする建設計画が1918(大正7)年12月に策定され、翌1919(大正8)年10月、資材運搬のため明治神宮造営局千駄ケ谷側線として復活します。千駄ケ谷駅付近の分岐から1045mある路線で、1926(大正15)年3月の側線撤去までの間に鉄材、石材、大理石、セメント、煉瓦、砂利など貨車総トン数換算で22万8654トンが運ばれました。
明治神宮外苑完成後、線路は完全に撤去されたようです。中央線線路に沿った首都高速道路の建設もあり、線路跡部分の地形は一部が改造され、かつての線路の痕跡は全く残っていません。
なお現在、千駄ケ谷駅の信濃町寄りには、外苑西通りの架道橋東側で分岐して本線に沿う側線があり、これがかつての青山練兵場への路線跡と判断される方もいますが、実際には線路はもっと西側で分岐して、現在の首都高速より南側に延びていました。
今回は痕跡のない歴史的内容でしたが、都心付近の中央線は、四ツ谷駅西側にある中央・総武線各駅停車の煉瓦造り坑口の御所トンネルなど鉄道遺産が点在し、興味深い区間となっています。
【了】
Writer: 内田宗治(フリーライター)
フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。
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