「黒船襲来」2度目は白くなっていた 知られざる「白船来航」米国大艦隊が明治日本に来たワケ
表向きは日本も白船来航を歓迎
アメリカ艦隊の航海は4回に分かれていました。第1回は1907(明治40)年12月から翌1908(明治41)年5月に、アメリカ東海岸のハンプトン・ローズから南米諸国を回ってサンフランシスコに至るものです。続く第2回は西海岸のサンフランシスコから海軍基地のあるワシントン州のピューゼット・サウンドを往復。そして第3回は同年7月にサンフランシスコを出航し、ホノルル、ニュージーランド、オーストラリア、フィリピンを経て日本、中国を巡り、再びフィリピンに戻るルートでした。
最後の第4回は、12月にフィリピンを出航し、翌1909(明治42)年にかけてセイロン島、スエズ運河を通って地中海から大西洋に抜け、ハンプトン・ローズに戻るというものです。
アメリカ艦隊の陣容は旗艦「コネチカット」以下戦艦16隻、水雷艇6隻、工作艦や補給艦、病院船など5隻というものでした。
なお、ペリー艦隊が「黒船」と呼ばれたのは、帆船時代から軍艦の塗装が黒かったからで、19世紀後半には白い塗装に代わっています。ちなみに日清戦争や日露戦争の日本艦隊も白い塗装を用いていました。
日本を目指すアメリカ艦隊がマニラを出航したのは1908(明治41)年10月9日のこと。途中、大型台風の直撃を受けながらも、10月18日に横須賀港へ到着しています。
日本側は出迎えに戦艦「三笠」をはじめとする艦隊を随伴させました。緊張する日米関係とは裏腹に、横浜は歓迎一色となり、上陸したアメリカの乗組員も行動が許された藤沢や鎌倉、東京の見物を楽しんでいます。
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