「黒船襲来」2度目は白くなっていた 知られざる「白船来航」米国大艦隊が明治日本に来たワケ
のちに日本と戦った若き海軍士官たちも来日
訪日したアメリカ海軍の士官には、その後に起こる太平洋戦争で艦隊指揮官として日本と戦うことになる人たちがいました。
太平洋戦争時、南東方面軍司令官時代にはガダルカナルの戦いからソロモン諸島の戦いを経て、第3艦隊司令官としてレイテ沖海戦を指揮するウィリアム・ハルゼーは、白船来航のときに海軍少尉として戦艦「カンザス」に乗り組んでいました。
ほかにも、戦艦「オハイオ」にはミッドウェー海戦の空母部隊指揮官から第5艦隊司令官として太平洋戦争後期の戦いに重要な役割を担うレイモンド・スプルーアンスが乗っていました。
なお、両名の上官としてのちに太平洋艦隊司令長官となるチェスター・ニミッツは、世界周航が始まった1907(明治40)年当時、フィリピンのアジア艦隊で駆逐艦の艦長を務めていましたが、駆逐艦を座礁させたため軍法会議にかけられて、この訪日には参加していません。しかしニミッツは2年前の1905(明治38)年に少尉候補生としてアジア艦隊で来日しており、日本艦隊の日露戦争凱旋観艦式に参加したほか、日露戦争でロシア艦隊を破り一躍名を馳せた連合艦隊司令長官の東郷平八郎と面会しています。こういった経緯があったからか、太平洋戦争後にニミッツは戦艦「三笠」の保存に尽力することになります。
ちなみに、ハルゼーも東京で行われた歓迎会で東郷平八郎に会っていますが、命令に従っただけだと冷めた感想を残しており、スプルーアンスは特に感想を述べていません。
歓迎ムードに包まれた「グレート・ホワイト・フリート」の裏側で、日米は来るべき対決に向かっていきます。当時その場にいた海軍士官たちは、それぞれの思いを抱きながら30年余りのちに日本との戦いで指揮を執ることになります。
【了】
Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)
軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。
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