完全な姿は世界で1機のみ! 岐阜に残る三式戦闘機「飛燕」 “和製メッサー”はなぜ生き残った?
原寸模型の製作がニュースとなった旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」ですが、修復された実機は世界で1機しか現存しません。その貴重な実物は、岐阜県の博物館に展示されています。どのような経緯で生き残ることができたのでしょうか。
数奇な運命で破壊を免れた「幸運機」
岐阜県各務原(かかみがはら)市には、かつて旧日本陸軍の各務原飛行場があった由縁で、現在では日本有数の航空博物館として知られる「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」、通称「そらはく」があります。ここには、T-2高等練習機やF-4EJ「ファントムII」戦闘機といった各種自衛隊機とともに、太平洋戦争などで用いられた旧軍機も展示されています。中でもメインと言えるのが、銀色に光り輝く姿で展示されている旧日本陸軍の三式戦闘機二型「飛燕」です。
この機体は戦後にアメリカへ渡ったものではなく、ずっと日本国内にあったものだそう。どのような流れで、「そらはく」に展示されるようになったのか、その経緯を振り返ってみましょう。
「そらはく」に展示されている機体は、三式戦闘機二型の試作17号機、型式名称「キ61-II改」の6117号機になります。太平洋戦争中は、東京・多摩地域の福生飛行場(現・在日米軍横田基地)に所在した陸軍航空審査部の飛行実験部戦闘隊で運用されていました。
このように、本土の飛行場で各種試験に用いられ、最前線へ行くことがなかったからこそ、生き残れた機体といえるでしょう。1945(昭和20)年8月に戦争が終わると、各地に残された多くの陸海軍機がスクラップにされましたが、本機はアメリカ軍が接収、横田基地(福生飛行場)内で展示されることになったため、奇跡的に破壊を免れます。
それから8年後、1953(昭和28)年に機体は日本側へ返還され、一般財団法人日本航空協会に所有権が移ります。ただ、この後、国内各地のデパートや遊園地などで展示されたことで、その間に損傷や部品の紛失などが相次いだとか。それでも貴重な大戦機として残り続けたことで、1986(昭和61)年には鹿児島県の知覧特攻平和会館に貸与されることが決定、そこから30年近く同地で翼を休めることとなりました。
そして2015(平成27)年には文化財として同機の修復が決まり、「飛燕」が生産された川崎航空機の工場があった各務原に里帰りしたのでした。
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