完全な姿は世界で1機のみ! 岐阜に残る三式戦闘機「飛燕」 “和製メッサー”はなぜ生き残った?

アメリカでは「和製メッサー」とも

 そもそも、この旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」とは、どういう戦闘機だったのか改めて振り返ってみましょう。

「飛燕」は型式名称「キ61」といい、川崎航空機(現・川崎重工)が太平洋戦争中に開発した戦闘機です。初飛行は太平洋戦争が始まったのとほぼ同時期の1941(昭和16)年12月で、それから2年後の1943(昭和18)年10月に制式化されました。ただし、実際の量産はその前年から始まっており、1945(昭和20)年8月の終戦までに約3000機以上が生産されています。

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終戦直後、福岡県の芦屋基地でアメリカに接収された第149振武隊所属の「飛燕」一型乙。垂直尾翼は三重県の明野飛行学校のマークだが、方向舵は前部とは異なる同部隊の菊水マークが描かれている(吉川和篤所蔵)。

 同機は太平洋戦争で日本が多用した戦闘機のなかでは唯一の液冷式エンジン搭載機です。搭載したエンジンは出力1100馬力の「ハ40」型ですが、これは戦争中、同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツ社が開発した液冷式エンジン「DB601A」型(1050馬力)を、川崎航空機がライセンス生産したものでした。

 このエンジンはドイツのメッサーシュミットBf-109E型戦闘機にも搭載されており、加えて「飛燕」の機首や風防(キャノピー)後方の形状がBf-109Eと似ていたことから、アメリカ軍では「和製メッサー」と呼んでいたとか。しかし、両機を比べた場合、「飛燕」の方が空力的に優れた形状をしており、速度だけでなく上昇力や旋回性能まで含め、ほとんどの点でBf-109E型を上回っていました。

 ただ、これはあくまでもカタログスペックでのハナシ。高い工作精度や冶金技術を要する液冷式エンジンは、しばしば不調を起こして本来の性能を発揮することができず、これは「飛燕」の問題として最後まで残りました。

 それでも改良は絶え間なく行われ、エンジンを性能向上型の「ハ140」型(1250馬力)に換装して胴体を延長、主翼を大型化したキ61-II型が1943(昭和18)年8月に試作され、このタイプでは最高速度610km/hを記録しています。最終的には量産性を考慮して従来のキ61-I型の主翼と組み合せたキ61-II改となり、翌1944(昭和19)年12月までに229機分の機体が完成しました。

 ところが、前出の工作精度や治金技術の問題は新型エンジンにも付きまといます。「ハ140」の生産はうまく軌道に乗らず、結局、数十機程度が完成しただけで、エンジン未搭載の“首なし機”が工場内に溜ってしまいました。

 そこで陸軍は「ハ140」型に見切りをつけて三菱製の空冷式エンジン「ハ112-II」型(1500馬力)への換装を決定。こうして生まれたのが、旧日本陸軍最後の制式戦闘機と呼ばれた「キ100」、通称「五式戦闘機」でした。

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