進水式の“縁起悪さ”を一挙挽回! 旧海軍艦艇で屈指の武勲艦「初霜」形見は今も東京に

東京下町の病院に今も残る「初霜」の碇

 以後「初霜」は、損傷した戦艦「榛名」や重巡「妙高」の護衛に就くなどして、1945(昭和20)年をシンガポールで迎えます。

「初霜」は駆逐艦「霞」「朝霜」と共に、航空戦艦「伊勢」「日向」、軽巡「大淀」を護衛する北号作戦に参加します。「伊勢」は高角砲で、敵潜水艦が発射した魚雷を撃破し、「初霜」も魚雷8発を回避するという離れ業を見せます。そういった奮闘などにより作戦は成功、「初霜」も日本本土に帰還することができました。

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駆逐艦「初霜」の全景。太平洋戦争前に撮られたもののため、船体側面に艦名を書き込んでいる(パブリックドメイン)。

 ただ、本土に帰り着いたことで「初霜」は同年4月の坊ノ岬沖海戦に投入されることに。呉で再編成を受け、第二水雷戦隊隷下の第21駆逐隊所属となった「初霜」は、戦艦「大和」を護衛して、沖縄へと向かうことになったのです。

 アメリカ軍艦載機による猛攻の結果、「大和」や軽巡「矢矧」はもちろん、参加した駆逐艦についても、10隻中、「磯風」「霞」「朝霜」「浜風」の4隻が沈没。残った艦は本土に戻ることとなりました。そういったなか、「初霜」はこの時、魚雷が艦底を通過するものの命中しないという幸運を発揮し、生き残りました。

 なんとか坊ノ岬沖海戦を生き延びた「初霜」ですが、第二水雷戦隊も解隊され、第21駆逐隊も消滅します。結果「初霜」は、同じく生き延びて戻ってきた「雪風」と舞鶴で第17駆逐隊を組みました。

 6月、「初霜」は宮津湾で砲術学校練習艦となります。そして7月末、機雷封鎖された宮津湾を空襲が襲い、「初霜」「雪風」は狭い湾内で袋叩きとなります。

「初霜」はついに被弾し、沈没を避けるために獅子崎付近に自ら座礁します。艦体は中央から折れ、後半は海中に、前半は砂浜に横壁を埋め、艦首を斜めに高く上げた状態でした。生存者は生き残った「雪風」に救助され、そのまま終戦を迎えます。

 こうして「初霜」は旧日本海軍で最後に沈没した駆逐艦以上の艦艇となりました。ちなみに「初霜」の碇は、東京都墨田区の山田記念病院の入口脇で保存されています。これは、同院の開設者である山田正明院長が「初霜」軍医長だった縁とのことです。

【了】

【日本を代表する幸運艦】アナログ計器や伝声管が並ぶ駆逐艦「雪風」のブリッジ内観

Writer: 安藤昌季(乗りものライター)

ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロ イラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。

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