終点目前で“関東大震災”発生 「駅の物品を載せろ」「うちの家財道具も」 避難運転の結末は
急行6列車は新橋駅で運転打ち切り
しかし、当時省線電車と呼ばれていた現在の山手線、京浜東北線、中央線では、脱線した列車はひとつもありませんでした。列車被害が多発したのは、震源に近い神奈川県南西部や千葉県房総半島南部の路線においてです。
下関発急行6列車はといえば、地震発生時、東京駅のひとつ手前である新橋駅に停車中でした。同列車もこの段階ではまったくの無傷です。
新橋駅には、1914(大正3)年に竣工したルネサンス様式の赤煉瓦駅舎がありました。辰野金吾設計の東京駅赤煉瓦駅舎を小ぶりにした印象のもので、こちらの設計は鉄道省によるものです。地震発生時、新橋駅赤煉瓦駅舎からは、石と鉄鋼がきしむような不気味な大音響がしたといいます。急行6列車はこの先の運転を取りやめ、乗客は全員新橋駅で降ろされます。
関東大震災による被害は、揺れによる建物の倒壊より、広域火災によるものが多大でした。死者(行方不明者含む)約10万5000名のうち、火災による死者が約9万1000人にものぼっています。
地震発生直後から、東京の下町一帯の各地や有楽町付近などで火の手が上がります。新橋駅では、夕暮れから風向き変わり、火災が迫ってくる危険が出始めます。同駅では、金庫、壁にかけた大きな時計、預かっている多数の手小荷物をはじめ、駅にあるあらゆるものを停車中の急行6列車へ積み込みました。
20時頃、ついに猛火が駅までやってきます。新橋駅舎2階には、東京駅の「精養軒」や万世橋駅の「みかど」と並び称された「東洋軒」(洋食堂)がありましたが、強風に煽られて東洋軒の煙突へと大きな火玉が落ちてきました。
駅長の杉田は消火活動を諦め、駅員に「総員引き揚げ」を命じ、ホームに停車していた急行6列車に駅員を乗り込ませます。
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