旧陸軍「隼」戦闘機の胴体なぜ山梨に!? 知られざる飛行場と秘密施設 幻の大本営移転とも関連アリ?

秘密工場群「ロタコ」とは?

 それにしても、どうして南アルプス市にこの一式戦闘機「隼」の胴体が、しかも2個も残されたのでしょうか。

 実は、甲府盆地の西側を流れる御勅使(みだい)川南岸の扇状地には、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年秋から、翌年の終戦日までアメリカ軍の空襲を避ける目的で、秘密裏に陸軍機の工場群、そして資材や工作機械を入れる横穴壕が、旧日本陸軍によって作られていました。当時のこうした活動を鑑みると、戦闘機の構成部品が残っていたのにも合点がいきます。

 なお、横穴壕の掘削にともない、滑走路や誘導路、航空機を空襲から隠したり保護したりする木製の掩体壕(えんたいごう)や航空本部施設なども作られたそうで、それら施設群は、総称して「ロタコ」という秘匿名で呼ばれました。

 この名前、実は「第二立川航空廠」の略称とも言われ、「ロ」はイロハで2番目を指し、「タ」は航空機製造会社の立川飛行機のこと、そして「コ」は航空廠(航空機の軍専用工場)を表していると考えられます。確かに旧日本陸軍では、我が国初の量産戦車である八九式中戦車のことをイ号、2番目の九五式重戦車についてはロ号、3番目の九五式軽戦車ではハ号と、それぞれ被匿名を付け、呼んでいました。

 他方で、それとは別に「ロタ」自体が立川航空支廠を表す被匿名だったのではないかという説もあります。

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山梨県南アルプス市の「ふるさと文化伝承館」で保管される、旧日本陸軍の一式戦闘機「隼」三型(キ43-III)の操縦席後部の胴体上部(吉川和篤撮影)。

 いずれにしても東京にあった立川飛行機、通称「立飛(たちひ)」は前述したように中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の移管生産を行っており、最終生産型である三型はほぼ全機の1500機が立飛で生産されていると伝えられるので、この甲府盆地にも新たな生産拠点を設けようとしていた事は確かでしょう。また本土決戦に備えた、大本営や政府機能の長野県松代市への移転計画を横目で見ながらのプロジェクトであったのかもしれません。

 しかし結局、1945(昭和20)年8月の終戦までには工場のフル稼動や航空機生産は間に合わなかったようで、せっかく地元の貴重な労働力を集めて作り上げた滑走路も数回しか使われなかったとか。くわえて、元々崩れやすい山の斜面に作られた横穴壕も戦後の物資不足で内部を支える木材が持ち去られてしまい、早々に埋まってしまったというハナシです。

 こうして「ロタコ」は関東どころか山梨県民にもほとんど知られずに、ひっそりと短い歴史に幕を閉じたのでした。

【超貴重!! 】これが一式戦闘機「隼」の胴体内側です!(写真)

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