ヒトラー専用列車がなぜ「アメリカ号」? 敵国名を付けた「走る大本営」の末路

ほかの高官が使った客車はビートルズも利用

 ドイツの敗色が濃くなって、ヒトラーがベルリンの総統地下壕に立て籠もるようになると、「ブランデンブルグ号」に乗ることはなくなり、最後には専用客車を破壊するよう命令します。

 ヒトラーは1940(昭和15)年、フランスを降伏させた独仏休戦協定の舞台装置に、第一次世界大戦時の意趣返しとして、ドイツの休戦協定締結に使われた食堂車を引っ張り出しましたが、同じように自分の客車を屈辱のシンボルにされるのを避けたかったようです。

 1945(昭和20)年5月7日午後3時頃、ヒトラーの客車はオーストリアのタウアーン線マルニッツ駅(現・マルニッツ-オーバーヴェッラッハ駅)南にあるデーゼンバッハ渓谷に架かる高架橋まで運ばれて爆破され、残骸は峡谷に落とすという徹底ぶりでした。

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専用列車の脇を歩くヒトラー(右)とリッペントロップ外相(ナロドウェ・アーキウム・サイフローエ, Public domain, via Wikimedia Commons)。

 一方、ナチス高官用のほかの客車は占領した連合国幹部などが使用しました。ゲーリングの「アジア号」は1955(昭和30)年9月、西ドイツのコンラート・アデナウアー首相がドイツ人捕虜の返還交渉にモスクワへ赴く際に使用されました。当時ソ連には西ドイツ大使館がなく、「移動する大使館」として機能したのです。その後1974(昭和49)年まで西ドイツ首相が使用しています。

 また、親衛隊のトップだったハインリヒ・ヒムラーの客車「シュタイヤーマルク号」は西ドイツ大統領用となり、1965(昭和40)年にエリザベス2世が初めてドイツを国賓訪問した際や、ビートルズのドイツツアーの移動用にも使われました。この賓客たちが豪華列車のルーツを知っていたかは定かではありません。

【了】

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Writer: 月刊PANZER編集部

1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。

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