3日で捕虜3.6万人!? イギリス戦車部隊がスゴかった作戦とは? イタリアはなぜコテンパンにされた?

戦車の機動力でイタリア軍を圧倒する

 攻撃の先鋒を担当することとなったのは、イタリアのエジプト侵攻後に増員された王立第7戦車連隊で、当時は重装甲で知られたマチルダ2歩兵戦車を50両もっていました。同戦車は、フランスを舞台にドイツ軍を相手にした「アラスの戦い」で一定の戦果は挙げたものの、8.8cm対空砲の水平射撃や、ドイツ空軍の航空支援などにより、結局多くの車両が撃破されてしまい、戦場に大きな影響を与えることはできませんでした。

 しかし、イタリア相手の今回の戦いでは、8.8cm対空砲のような有力な対戦車兵器や、同戦車を撃破可能な戦車を保有していなかったイタリア軍を圧倒する形となりました。戦闘はまず王立第7戦車連隊のマチルダ2がその重装甲を活かし、イタリア軍のこもる陣地を攻撃し、無力化。後続であるインド第4師団の歩兵部隊が制圧を担当することになりました。

 この戦闘では、イタリア軍の準備不足により、塹壕がほとんど掘られていなかったことも有利に働きました。マチルダ2は重装甲ではありましたが、歩兵を直接支援するために作られた歩兵戦車であるということで、機動力に劣っていました。そのため、ちょっとした遮蔽物でも足止めにはなりましたが、この作戦ではそれがありませんでした。加えて、作戦区域の制空権に関してもイギリス空軍が奪還に成功しており、同軍戦車部隊は上空から狙われる心配もなく作戦行動が取れました。

 さらに、マチルダ2と違い、装甲は薄いものの機動力に優れる車両でMk.I、Mk.II、Mk.III、Mk.IVといった巡航戦車も威力を発揮しました。巡航戦車を中心に運用していた第6王立戦車連隊では、撤退を始めたイタリア軍の追撃を開始しました。その機動力の高さに、度重なる攻撃を受け、車両の数が少なかったイタリア軍は対抗することも逃げ切ることもできず海沿いに包囲され、いたるところで集団での降伏が始まります。

 巡航戦車に関しても、フランスでは守勢に回ったこともあり、満足な戦果をあげていませんでしたが、この戦場では、敵の側面や背後を突くなど真価を発揮することになりました。また、この作戦以降、ドイツ軍の機甲部隊が北アフリカの戦場に現れても、一部の巡航戦車はII号戦車、III号戦車が相手ならば、問題なく戦うことができました。

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コンパス作戦中に戦場を疾走するマチルダ2(画像:帝国戦争博物館)。

 結局、イギリス軍は作戦開始からわずか3日で計3万6000人以上のイタリア捕虜を確保し、無勢が多勢を圧倒することになります。その後、イギリス軍はイタリアの勢力圏であるリビアの領内に侵攻し、1941年1月22日には、リビアの要所でもあるトブルク要塞までも陥落させ、2月9日の作戦終了時点で、イギリス軍はリビアの中央部まで軍を進める結果となりました。この戦いで、イタリア軍は約13万名の将兵を失い、砲845門と戦車350両を喪失。自国だけでは戦線を支えきれなくなり、ドイツ軍に支援を頼むこととなります。

【了】

【もの凄い数の捕虜!】投降したイタリア兵と鹵獲されたイタリア戦車(写真)

Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)

ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。

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