皇居を避けた? 半蔵門線の不自然な「Ω」ルートの真相 実はあった「皇居ぶち抜き地下鉄プラン」
戦前には「皇居下案」が存在した
もうひとつ、後発路線の特徴が地下深くを走る点です。地下鉄に限らず、地下空間は浅い部分から活用され、新しい設備はより深くつくる必要があるため、銀座線、丸ノ内線、有楽町線をくぐる半蔵門線は自然と深くなるのです。
また永田町付近を歩けばわかりますが、一帯は台地であり、半蔵門線は水平に走っているにもかかわらず、ホーム両端で地表からの深さは10m以上異なります。つまり永田町駅の深さ36mというのは、半分は見かけ上のものといえるでしょう。
では、なぜ皇居の地下を地下鉄は走らないのでしょうか。もし半蔵門線が渋谷~大手町間を最短・最速で結ぶためにつくられる路線であったら、(可能かどうかは別にして)検討する価値はあったかもしれません。しかし先述の通り、渋谷から九段下、神保町方面への移動や、皇居西側の地下鉄整備も目的のひとつだった以上、駅をつくらないわけにはいきません。
さらにいえば過去、実際にそのような構想は存在しました。東京市が関東大震災後に立案した復興計画では、角筈(新宿)から東京駅を経由して平井新田(東陽町付近)まで途中、皇居の乾濠下を通る路線が記されています。
この発想は合理的です。外濠に沿って迂回する現在のJR中央線に代わる路線なので、東京駅まで最短距離で結んだのでしょう。どのような工法を想定していたのかは不明ですが、当時主流の開削工法を用いるならば濠の水を抜いて、地上から掘り下げてトンネルを建設します。
戦前に「宮城(皇居の当時の呼び方)」の地下を通るなんて畏れ多いことができたのか、と驚くかもしれませんが、大正デモクラシーという独特の時代背景によるものなのでしょうか。
戦前に構想されたのであれば、現代で実現できない理由はないのですが、前記のように、地下鉄の役割を考えると、そのメリットがないから、というのが答えになりそうです。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
コメント