ジャングルから里帰りした「飛燕」なんとパイロット判明! 知られざる“エース”と新戦闘機ミュージアムとの「奇跡の縁」

実機パイロットはなんと岡山県の出身!

 では、この垂井中尉とはどのような人物だったのか、改めて振り返ってみましょう。

 彼は1915(大正4)年7月生まれで、1934(昭和9)年11月に陸軍飛行学校を卒業した少年飛行兵の第1期生です。実戦参加は1937(昭和12)年7月に始まった日中戦争からで、1939(昭和14)年5月に勃発したノモンハン事件でも戦っています。なお、6月26日の初戦では、ソ連(現ロシア)のI-15戦闘機50機以上を相手に、同僚とともに九七式戦闘機3機で挑んで6機を撃墜、その内の2機は垂井機の戦果でした。

 こうして垂井曹長(当時)は9月停戦までの3か月間に28機を撃墜してエースに名を連ねたほか、ノモンハン戦全体では撃墜数第2位を誇るまでになっています。ちなみに、その間には空中接触されて落下傘降下した中隊長(上司)を、敵地に強行着陸して救出するという活躍まで見せました。

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オープニングセレモニーにおいて岡山県在住の垂井大尉のご遺族(右手前)に「飛燕」実機の破片を手渡す、株式会社ドレミコレクションの武社長(吉川和篤撮影)。

 その後、垂井曹長は陸軍士官学校に進んで1941(昭和16)年7月に少尉へ任官、同年12月に太平洋戦争が勃発すると南方のマレーやジャワ、スマトラを転戦します。帰国後の1943(昭和18)年4月、中尉へ昇任すると彼は第68戦隊に配属となり、再び南方のニューギニアへ派遣されることが決まります。この時に受領したのが三式戦「飛燕」の177号機。この機体で、垂井中尉は故郷である岡山県美咲町の実家上空を3回旋回飛行したと伝えられています。

 そう、つまりこの機体の操縦者は、このたび開館したミュージアムと同じ、岡山県の出身だったのです。

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