“絶滅”間近の国鉄型 201系電車は何がすごかったのか 登場45年、関西で最後のとき

国鉄の負担になるほど高価だった

 201系は省エネだけでなく、現代の車両に通じる新機軸をいくつも備えていました。台車には301系電車以来の空気ばね台車を採用し、乗り心地を改善。座席も1人当たりの幅を明確に示したデザインで、側扉と座席を仕切る袖仕切り形状は、肘掛けとしてよくできていました。

 側窓は下段上昇・上段下降式のユニット窓ですが、上段窓にバランサーが付けられていました。それまでの103系電車は窓が重く開けにくかったのですが、大きく改善されたことは驚きでした。当時は通勤形電車で側窓を開ける風習があり、窓を開けて走ることは珍しくなかったのです。

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201系の車内(安藤昌季撮影)。

 好評をもって迎えられた201系は、1981(昭和56)年より量産車が登場し数を増やしました。試作車の車体構造や材質を再検討した結果、1両2.1~2.8tの軽量化が実現したほか、ブレーキの回生率の向上も図られ、より省エネな電車となりました。201系の走行システムは地下鉄向きでもあり、1982(昭和57)年より車体をアルミニウム製にした地下鉄乗り入れ用203系電車も製造されました。

 しかし増備を続けるうちにコストの高さが問題とされました。高価なチョッパ制御機器を搭載した201系は、電動車同士の比較で103系の9859万円に対し、1億4085万円(1982年当時)でした。危機的な経営状態にあった国鉄にとって、201系の製造は負担だったのです。

 この結果、1984(昭和59)年の増備車からコストダウンが図られます。側窓がバランサーのない2段上昇式となったり、車両番号表記をステンレス切り抜き文字から転写式にしたりなど、仕様の変更が行われました。しかし、1両1億3697万円とほぼ価格は下がりませんでした。このため、1985(昭和60)年で201系の増備は打ち切られます。

【写真】若い人は知らない? 中央快速線・総武緩行線の201系

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