「関門トンネル」ついに80歳 “橋ではダメだ”戦時中でも建設断行の裏にあった「超壮大な計画」とは

戦時中も工事が続行され貴重なインフラに

 陸軍が計画を後押ししたのは、このトンネルが開通し実績ができれば、国内の流通の安定だけではなく、当時の計画としてあった九州・壱岐・対馬・朝鮮半島を海底トンネルでつなげ、満州から九州までつながる鉄道網を構築しようという「大東亜縦貫鉄道構想」も前進するのでは、という思惑があってのものでした。

 トンネルで大陸まで繋がれれば、陸軍は大陸向けの軍需品輸送の多くを鉄道で行えるということで、海上輸送よりも安定的な補給網を確保できることになります。

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関門(鉄道)トンネル下り線トンネルの掘削現場(画像:鉄道省 土木建築工事画報1939年1月号「関門海峡連絡隧道工事図譜」/Public domain、via Wikimedia Commons)。

 1936年7月には現場機関として鉄道省下関改良事務所が発足。同年9月19日に九州側の小森江で起工式が行われ、空前の大工事がスタートします。この工事のトンネル掘削には、当時最新鋭だったシールドマシンという円筒形の掘削機を使った「シールド工法」が使用されます。この工法を成功させるために、関係悪化していたアメリカまで視察に訪れる徹底ぶりでした。

 工事中に日本は第二次世界大戦に参戦することになりますが、戦略的に重要であるとして工事は続けられ、下り線は1942年7月1日に開通。上り線のトンネル開通は前出の通り1944年8月8日に開通し、同年9月9日から複線での運用が開始されました。この時期は、大戦も終盤で日本の敗色はすでに濃厚になり、サイパン島を喪失し、本土空襲の危機感も高まっていました。

 1945年に入ると、本土空襲に加え、「飢餓作戦」とよばれる機雷による海上封鎖作戦で、日本の海上輸送力は極端に低下します。そこで重要な地位を得たのが完成したばかりの関門トンネルで、本州と九州間の石炭や物資、さらに兵員や兵器の輸送を比較的、安全に行うことができました。また、戦後でも日本の交通網における要所のひとつとなり、戦後復興を支えるインフラのひとつとなりました。

 ちなみに、国道2号が走る「関門国道トンネル」に関しても戦前に計画され1937年から掘削が開始されていましたが、地質などを調べる導坑の掘削が終わった後、戦局悪化により工事が中断。戦後の1952年に工事を再開し、1958年3月9日に開通しました。

【了】

【当時は最新の技術!】これが、関門トンネルを掘った筒です(写真)

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