「史上最悪の作戦」から80年 元日本兵の手記に見る「自動車部隊」 知られざる任務の実態とは
生存者の手記から実態に迫る
ビルマとインドの国境には密林地帯のアラカン山系が待ち構えていました。インパール作戦の経緯など詳細は周知されているので省きますが、その実態は、食料などの兵站を軽視したうえに、50年に一度の酷い雨季と重なり、将兵は険しい山中で補給が途絶え、戦闘よりも極度の疲労と栄養失調のため死亡者が続出。戦闘不能に陥って攻略不可能となり、7月2日に作戦を中止しました。
撤退時には連合軍の反攻と栄養失調で多くの兵を失い、およそ3万人が命を落としたのです。
史上最悪の作戦の実態は、多くの手記やドキュメントで人々の知るところとなりましたが、祖父のいた自動車部隊がどのような状況であったかは、あまり知られていません。そこで、祖父を含む101大隊の生存者による苦闘の体験談をまとめた手記『ビルマ戦線 わだちの跡 独立自動車第101大隊』のページをめくり、自動車部隊の実態を追っていきます。
101大隊は、武器弾薬、糧秣、燃料、兵員輸送から、牟田口廉也中将の現地視察まで、ありとあらゆる「輸送」に活躍しました。前線の後方ではビルマ側の国境付近、トンザン、テイデム、ヤザキョウ、タムなどの地点へ、主に第15師団(通称:祭)や第33師団(通称:弓)への輸送でした。
自動車部隊は絶えず敵軍に狙われていました。兵士達から“街道荒らし”と呼ばれた英空軍のスピットファイアー戦闘機が頻繁に攻撃を仕掛けるため、日中は輸送できずに夜間の隠密行動を強いられていたのです。連日の輸送によって、昼間はトラック整備に追われ、十分な睡眠が得られぬまま、日没から夜明けにかけての夜間行動でした。
部隊は毎日の睡眠不足と疲労によって、マラリヤ、脚気、下痢と、次々と病魔に倒れていきます。後方へ送られ死亡する者も増え、だんだんと数が減っていったのです。詳しくは、「乗りものニュース」の『祖父は「インパール作戦」を生き延びた〈前編〉 “泥と白骨の地獄”を駆けた自動車部隊の実態を追う』に掲載しています。
【了】
Writer: 吉永陽一(写真作家)
1977年、東京都生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、建築模型製作会社スタッフを経て空撮会社へ。フリーランスとして空撮のキャリアを積む。10数年前から長年の憧れであった鉄道空撮に取り組み、2011年の初個展「空鉄(そらてつ)」を皮切りに、個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集め、鉄道空撮はライフワークとしている。空撮はもとより旅や鉄道などの紀行取材も行い、陸空で活躍。
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