祖父は「インパール作戦」を生き延びた〈前編〉 “泥と白骨の地獄”を駆けた自動車部隊の実態を追う
史上最悪の作戦といわれるインパール作戦から生還した祖父。遺した手記をもとに、自動車部隊として従軍したときの様子に迫ります。雨季の密林はすねまで泥濘に浸かり、伝染病も相まって戦闘どころではありませんでした。
この記事の目次
・祖父は自動車部隊として従軍
・寝る間もなく輸送に徹す
・50cm沈むほど泥濘化 整備は過酷を極めた
【画像枚数】全9点
祖父は自動車部隊として従軍
「おじいちゃん、ハッコツカイドウって歩いたことあるの?」
「白骨街道?歩いたよ。日本兵が腐って骨になった死体がゴロゴロあって……」
私がまだ小学生になった頃だと思います。ビルマ戦線の激戦をくぐり抜け生還した祖父(吉永正次郎)は、戦場での体験を何度も話してくれました。祖父は30年前に亡くなり、もう話を聞く事が叶いませんが、インパール作戦、死屍累々の白骨街道、絨毯爆撃の遭遇など、地獄の戦場といわれるビルマ戦線の体験談は、子供心ながらにショックで深く記憶しています。
祖父は軍用自動貨車(トラック)運転手の兵でした。1940(昭和15)年の臨時招集で輜重兵第一連隊留守隊に応召となり、本人曰く「トラックの運転ができたから」運転手になったのだと。自動車部隊の訓練を受け、一旦は除隊しましたが、除隊記念のアルバムを保管しているので、訓練模様を数点掲載します。
祖父は1941(昭和16)年12月、二度目の招集で独立自動車第101大隊(以下、101大隊)第三中隊へ編入。101大隊は宇品港を出港後に第15軍隷下となり、バンコクへ上陸後はビルマ(現・ミャンマー)へ物資輸送を開始。1942(昭和17)年のビルマ全土を掌握する攻略作戦、1944(昭和19)年のインパール作戦、その後の地獄の撤退戦を経て、1945(昭和20)年5月にタイへ撤退するまで、毎日のように死と隣り合わせでした。
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Writer: 吉永陽一(写真作家)
1977年、東京都生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、建築模型製作会社スタッフを経て空撮会社へ。フリーランスとして空撮のキャリアを積む。10数年前から長年の憧れであった鉄道空撮に取り組み、2011年の初個展「空鉄(そらてつ)」を皮切りに、個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集め、鉄道空撮はライフワークとしている。空撮はもとより旅や鉄道などの紀行取材も行い、陸空で活躍。