“中距離快速”消滅は時代の流れか JR東日本「東京圏70km60分構想」の今 アクティーや京葉快速が生まれて消えたワケ
国鉄時代の遅い車両で「スピードアップ」するには
要因のひとつは車両です。中央線を除けばいずれも特急列車が120~130km/hで走行する高規格路線でしたが、JR発足から2000年代初頭まで、国鉄時代に設計された最高速度100km/hの旧式車両が残っていたため、速度向上は困難でした。
そこで最初に手を付けたのは、停車駅を減らし、停車時間を削減することで表定速度を向上させた快速列車の設定です。1988年3月のダイヤ改正で東海道線に「アクティー」、東北線に「スイフト(通勤快速)」「ラビット」、高崎線に「タウン(通勤快速)」「アーバン」を新設しました。
1990年3月に京葉線が東京延伸開業すると、外房・内房線から京葉線に乗り入れる快速列車が誕生しました。また「東京圏70km60分構想」の対象外ですが、中央線にも1989年、遠距離通勤に対応した富士急行線河口湖行きの「通勤快速」が登場します。
1987年から1990年にかけて新設された快速列車により、東海道線東京~小田原間(83.9km)の表定速度は約56km/hから約72km/h、宇都宮線上野~小山間(77km)は約58km/hから約71km/h、高崎線上野~深谷間(73.5km)は約49km/hから約68km/hに向上します。
ただ、過密ダイヤの上り朝ラッシュの速達化は困難で、例えば東海道線の下り湘南ライナーや日中のアクティーは東京~小田原間を1時間10分程度で結びましたが、上り湘南ライナーは1時間25分程度を要しました。宇都宮線、高崎線も日中と夕夜間下り快速は小山、深谷まで1時間強で結んだものの、朝ラッシュの上り快速は設定されませんでした。
総武(京葉)線木更津~東京間(74.3km)は1987年の約55km/h(総武快速線経由)から1990年は約60km/hとなり、1996年に約72km/hへ向上。常磐線は2005年に登場した「特別快速」が首都圏最速の130km/h運転を開始し、上野~土浦間(約66km)を表定速度約70km/hで結びました。
JR東日本初代社長の住田正二氏は1992年の著書『鉄路に夢をのせて』で、公的資本を投入すれば都心と80~120km圏を1時間で結ぶ「夢の120km圏1時間通勤新線」が可能と語っています。しかし既にバブル経済は崩壊しており、2000年代以降は「都心回帰」へ転じていきます。
バブル期に郊外に住宅を取得した人も2020年代に入って多くが定年を迎えており、通勤対策の主眼は中長距離の速達性から、近距離の運行本数・直通運転に移っています。コロナ禍に前後する快速列車の廃止・縮小は、首都圏からついにバブルの残り香が消えたことを示しているのかもしれません。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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