ヤマハさーん!「楽器ですかエンジンですか?」 元は一つ 楽器屋がなぜバイクメーカーになったのか
元々ピアノなどに代表される楽器の分野で日本トップブランドだった「ヤマハ」。現在ではヤマハ発動機がバイクやマリン製品、電動アシスト自転車など幅広く開発し、そのきっかけとなったのが「赤とんぼ」ことYA-1でした。
YA-1を礎に「4大バイクメーカー」のひとつに
また、ヤマハはYA-1で国内のレースにも参戦。当時のバイクレースはモータースポーツという一面だけでなく、各社のバイクの優劣を結果的に知らしめる技術コンテスト的な側面が強く、各社とも相当な熱を込めて参戦していました。
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YA-1の初戦は、1955年7月開催の「第3回富士登山レース」。そうバイク製造の知見があったわけではないヤマハでしたが、エンジンの出力アップに全力を挙げて取り組み、YA-1が優勝。さらに複数参戦したYA-1のうち、10位までに7台がランクするという奇跡を起こしました。
そしてこの浅間レースとほぼ同時期に、日本楽器からバイク部門が独立する形で、我々のよく知るヤマハ発動機株式会社が設立されました。以降、ヤマハ発動機株式会社と、楽器の「ヤマハ」であるヤマハ株式会社は完全な別会社となり、歩みを進めることになります。
また、同年11月の「第1回浅間高原レース」でも上位にランクし、一気に「ヤマハ」の名を業界内外に知らしめる結果となりました。
日本国内の2大バイクレースでの快挙を経て、YA-1をさらにパワーアップさせたヤマハ発動機は、さらなるモデルを開発し、アメリカのバイク市場獲得を念頭にアメリカのレースにも参戦。同時に浜松でファクトリーマシンの開発チームを組織し、熱心に世界レースへ参戦しました。最初の参加となったのが1958年にサンタ・カタリナ島で行われた第8回カタリナGPで、同レースは当時、アメリカの西海岸で当時最も人気が高いレースでした。
このグランプリでヤマハチームは初参加で入賞を果し、その後は世界最高峰のロードレースである世界選手権グランプリにも参加し好成績を収めます。これらの実績から、バイクメーカーとしてのヤマハは、日本国内はもちろん世界中で知られるようになり、今日の「日本の4大バイクメーカーのひとつ」として定着に至ったというわけです。
その礎を築いたYA-1は今日まで「楽器メーカーだったヤマハを変えた1台」として語り継がれ、ヤマハ関係者だけなくファンの間でも「伝説のバイク」として知られています。
Writer: 松田義人(ライター・編集者)
1971年、東京都生まれ。編集プロダクション・deco代表。バイク、クルマ、ガジェット、保護犬猫、グルメなど幅広いジャンルで複数のWEBメディアに寄稿中。また、台湾に関する著書、連載複数あり。好きな乗りものはスタイリッシュ系よりも、どこかちょっと足りないような、おもちゃのようなチープ感のあるもの。
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