「電気消せ!」空襲下でも運行した鉄道 “隠れて走る”ための工夫とは 「電気消えません!」な車両はどうした?
太平洋戦争の末期に東京は度重なる空襲を受けました。そのとき、鉄道はどのように運行されていたのでしょうか。なかでも地下鉄は空襲時でも運行できると期待されていましたが、それでも影響を受けていたようです。
ドタバタだった地下鉄の空襲対策
とはいえ実際にどれほど実践できたのかは不明です。例えば現在の地下鉄銀座線は渋谷駅付近に地上区間がありますが、当時の旧東京地下鉄道1000形は室内灯が減光できず、旧東京高速鉄道100形は減光が可能だったものの、起動時に室内灯が点灯してしまう仕様だったといい、設備面の対応が万全というわけではなかったようです。
さらに1000形はレモンイエローの車体色、100形はシルバーの屋根という非常に目立ちやすい塗装だったことから、1943(昭和18)年に入ると、あわてて暗い色に塗り直すというドタバタぶりでした。
運輸通信省は1944(昭和19)年8月、告示「警戒警報又ハ空襲警報発令間ノ旅客及荷物運送ニ関スル件」で、警報発令中は乗車券の発行を制限または停止し、運行も予告なく変更または取りやめることがあると通達しました。
空襲下でも運行可能な交通機関として期待されていた地下鉄は当初、警戒警報発令中も室内灯を消灯し、列車標識として運転台に自転車用の懐中電灯を置いて地上区間を走行していましたが、空襲が激化すると運行どころではなくなり、運転を見合わせるようになりました。
もっとも、原爆投下を受けた広島ですら数日後には一部区間で鉄道が走り始めたことが示すように、線路の復旧は盛土、レール、枕木さえあれば比較的容易です。
前述の山手大空襲も山手線を中心に広範囲で駅舎、車両、線路が被害を受けましたが、6月1日までにすべての区間が復旧しています。そのため実際には、事前に危惧されたほど鉄道そのものが攻撃目標となることは少なかったようです。
ただし1945年7月28日に山陰本線大山口駅東付近、8月5日に中央本線浅川(現・高尾)駅付近、同8日には西日本鉄道大牟田線筑紫駅付近を走行中の列車が米軍戦闘機から機銃掃射を受け、多数の乗客が死亡する事件など、戦争末期の悲劇があったことも忘れてはなりません。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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