改装に次ぐ改装… 最新戦艦→空母艦隊の中心へ成り上がった「赤城」 最初はダメダメだったけど
太平洋戦争の緒戦で航空母艦6隻を中心とした南雲機動部隊は、アメリカ、イギリスの艦隊相手に大きな戦果を挙げます。その旗艦が空母「赤城」でした。巡洋戦艦になるはずが、改装を受け続けて空母となった武勲艦について紹介します。
大改装終えて参加した実戦
不具合の解決や装備追加のたびに「赤城」は予備艦籍となります。ただ、それが度重なったため、同艦は就役から1935(昭和10)年の大改装までの7年半のあいだで、実働は4年半程度という惨憺たるものでした。結局、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約で小型空母が条約の制限外とされたこともあり、「赤城」と、廃艦の予定だった戦艦「加賀」を抜本的に改装することを旧海軍は決めます。

改装では飛行甲板を1段式へ、さらに格納庫を拡大し飛行甲板上の待機機数を増やすことで、同時に発進できる航空機数を増加させています。飛行甲板上への艦橋追加や対空兵装強化も求められました。ただし「赤城」の対空兵装は予算不足から、「加賀」では行われた高角砲(高射砲)の換装は行われませんでした。
改装後の格納庫面積は6521.1平方メートルで、同時期の英米空母よりも広くなり、搭載機数も60機から91機に増えています(太平洋戦争開戦時は艦載機が大型化したので、62~75機)。艦載機用の弾薬や航空燃料などの搭載量も増え、エレベーターや着艦制動装置も改善されました。ただ、こうした改装で基準排水量は3万6500トンに増大する一方、機関は換装されなかったため、速力は完成時の32.1ノット(約59.4km/h)から30.2ノット(約55.9km/h。航空本部資料では29ノット/約53.7km/h)に低下しています。
1938(昭和13)年に改装を終え、大幅に能力を向上させた「赤城」は、太平洋戦争では日本の空母機動部隊の旗艦となり、ハワイ真珠湾、オーストラリア、インド洋などで多数の敵艦と交戦し戦果を挙げました。しかし1942(昭和17)年のミッドウェー海戦でアメリカ機動部隊からの爆撃を受け、大火災を起こしたのち味方の駆逐艦によって雷撃処分されました。
「赤城」は空母建造の経験がない時期に誕生したこともあり、問題が多い艦型でしたが、大改装の結果、世界最強といわれた空母機動部隊の中核を担いました。10年にも満たない期間でここまで性能が向上した旧日本海軍の艦艇は、「赤城」「加賀」くらいといっても過言ではないでしょう。
Writer: 安藤昌季(乗りものライター)
ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロイラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。
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