「ちょっと異質」なJR川越線 “忘れられたような”存在のローカル線が大変貌できたワケ 今や日本トップクラスの“単線”
首都圏を走るJR川越線は、国防を意識したローカル線としてスタートし、現在は東京や神奈川まで直通する通勤路線に進化しています。その転機は新幹線の建設ですが、何が川越線の命運を分けたのでしょうか。
川越線「大改造」のきっかけは?
それでも1970年代になると川越線沿線も住宅化が進み、1982(昭和57)年の日進~大宮間の朝ラッシュ平均混雑率が247%に達するなど混雑が問題化します。しかし基本的な輸送形態は、1969(昭和44)年に蒸気機関車が引退したことを除けば、1960年代のまま変わらず、地元はたびたび電化や複線化の要望を上げていました。

そんな川越線の命運を変えたのが1970年代末、東北新幹線建設の見返りとして浮上した「通勤別線(通勤新線)」です。通勤別線赤羽~大宮間、赤羽線、山手貨物線を1本に接続したのが現在の「埼京線」ですが、当初の埼京線の乗り入れ先は川越線ではなく、高崎線大宮~宮原間を複々線化して宮原駅とする計画でした。
何時の世も、新線計画の成否は車両基地の用地取得が左右します。国鉄は「第5駅(北戸田駅)」周辺、戸田・浦和市境付近に車両基地を設置する考えでしたが、用地買収が難航して頓挫。代替地として川越線指扇~南古谷間の田園地帯が浮上したことで、通勤別線は川越線と一体的に運行することとなりました。
しかし当時の川越線は全線単線の非電化路線どころか、腕木式信号機やタブレット閉塞が現役という、東京近郊とは思えぬ前時代的設備。これを1982(昭和57)年11月の計画変更承認から埼京線開業まで、たった3年弱で刷新しなければならなかったのです。
最初に決めなければならないのが電化区間です。埼京線への対応だけであれば川越東線のみ電化する選択肢もありましたが、川越を通過する旅客のサービス低下を防ぐため川越線全線の電化を決定。大宮~川越間のホーム有効長延伸など構造変更を行い、川越東線を10両、川越西線を3両(1996年に4両化)で運行し、日中のみ大宮~高麗川間の直通列車を設定しました(1989年廃止)。
八高線高麗川~八王子間をあわせて電化する案もありましたが、検討課題が多かったことから、民営化後の1996(平成8)年まで持ち越しとなりました。以降、川越西線は八高線との結びつきを深め、東西異なるルートで東京と接続しました。
沿線民なので、あえてコメントしておきます。
ラッシュ時は登上り最大8本、下り5本と