日本で実施の“伝説の航空ショー”どんなものだった? 「日本の防空の未来」を決めた“バチバチ対決”も
「航空ショー」といえばいまや「海外でやるのが当たり前」と思われがちですが、過去に航空自衛隊の基地で数回にわたり、大規模な国際エアショーが開催されたことがあります。どういったものだったのでしょうか。
F-15、F-14の実機が披露される
さらに、もうひとつ大きな出来事がありました。それが、1976年9月6日に発生したベレンコ中尉亡命事件です。

ソ連空軍のヴィクトル・ベレンコ中尉がMiG-25戦闘機で函館空港に強行着陸し、アメリカへの亡命を求めたこの事件は、謎に包まれていたソ連の戦闘機の実態を明らかにした重要な出来事となりました。
一方でこの事件は、航空自衛隊が保有するF-4「ファントム」のレーダーに、低空飛行機体を補足するルックダウン機能がないなど、日本の防空体制の不備も露呈する形に。我が国の防空について一般の人々にも関心が高まり、次期主力戦闘機の選定には大きな注目が集まることとなったのです。
こうした中で開催されたのが、第5回国際航空宇宙ショーです。入間基地には、日本をはじめ、アメリカ、ソ連、カナダ、西ドイツ、イタリア、イギリス、フランスなど、123の団体が参加しました。
当然、最大の注目を集めたのは、アメリカ軍のF-14およびF-15でした。F-14を製造するグラマン(現・ノースロップ・グラマン)、F-15のマクダネル・ダグラス(現・ボーイング)はともに、「我こそがソ連のMiG-25に対抗し得る戦闘機である」とアピール合戦を展開しました。
また、F-16を売り込むジェネラル・ダイナミクス(現・ロッキード・マーチン)も、日の丸を描いたF-16の模型を展示し、「F-16もまだ候補に残っている」と言わんばかりの姿勢でアピールしていました。
噂によると、当初F-14の出展予定はなかったものの、日本での選定レースに不利と見るや、グラマンが急遽出展を決定し、大逆転を狙ってショーに参加したとも言われています。
また、1976年がアメリカ建国200周年の記念年でもあったことから、F-14とF-15には「バイセンテニアルカラー」と呼ばれる特別塗装が施され、来場者の注目を集めました。
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