「ただの中間駅」がどうやって“世界有数のターミナル”に!? 都の東北「北千住」の大出世をご存じか
5路線が乗り入れる北千住駅は、明治時代に開業して以降しばらくは「いち中間駅」にすぎませんでしたが、戦後一気にターミナル駅へと変貌を遂げます。どのような経緯で「東京北東部の玄関口」へと進化したのでしょうか。
「いち中間駅」にすぎなかった北千住駅
JR常磐線と東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)、地下鉄日比谷線、千代田線、つくばエクスプレスの5路線が乗り入れる東京北東部のターミナル・北千住駅。約130年に開業した歴史ある駅ですが、利用者が激増したのは1962(昭和37)年の日比谷線開業以降のことです。どのように今の地位を築いたのか見ていきましょう。
北千住駅は1896(明治29)年、日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)の途中駅として開業しました。千住は江戸時代、日光街道・奥州街道の最初の宿場町として栄えた街で、はじめは千住大橋を越えた「北千住」が発展し、続いて「南千住」へ広がりました。明治中期の地図を見ると現在の足立区、葛飾区はほとんどが田畑ですが、北千住駅西口だけは日光街道沿いに建物が密集している様子が見て取れます。
常磐線開通から3年後の1899(明治32)年、北千住~久喜間に東武鉄道が開業します。久喜以北は両毛鉄道(両毛線)足利駅、北千住以南は越中島まで延伸する計画であり、仮のターミナルである北千住と久喜は駅業務を日本鉄道に委託しました。
越中島への延伸を目指していたのは、東武鉄道の設立理由の一つに海運と連携した北関東の織物輸送があったためです。都心の用地買収が難航して亀戸までの延伸にとどまりましたが、当時は私鉄だった総武鉄道に直通し、旅客列車は両国橋(現・両国)駅、貨物は本所(現・錦糸町)駅を拠点としました。
総武鉄道の国有化後は都心側の拠点を業平橋(現・とうきょうスカイツリー)駅に移し、貨物は同貨物駅のドックから舟運で市内へ輸送しました。その後、東武は市内乗り入れを図って上野延伸、浅草延伸を出願し、1931(昭和6)年に浅草雷門駅が開業します。この頃の北千住駅は東武にとって「いち中間駅」に過ぎなかったのです。
東武線の1931年の1日平均乗車人員は、浅草雷門駅の約1万人に対して、北千住駅は1700人程度に過ぎず、業平橋駅の約5000人、玉ノ井(現・東向島)駅の約5500人を大きく下回っていました。貨物取扱数を見ても、業平橋駅が1日平均709トン、中千住駅(1924年開業、1945年休止、1953年廃止)が46トンだったのに対して北千住は3トンで、常磐線との連絡輸送もほとんどなかったことが分かります。
常磐線の北千住駅も、同年の乗車人員は東京駅約6.5万人、新宿駅約7.2万人、上野駅約3万人に対して約5000人。東京近郊の駅としては決して少なくはありませんが、総武線でいえば亀戸や平井、小岩などと同程度です。貨物も隅田川貨物駅が1364トン、三河島駅が117トンに対して北千住は50トンでした。





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