「おい信じられるか? ここ全部“海”だったんだぜ…?」 高速道路の“ナゾの橋”の下で“遺構”を発見! 周りは千葉の住宅街!?
千葉県の京葉道路にある「西鷺沼橋」。防音壁に囲まれ何を渡っているのか見えませんが、実はこの橋、かつて海と「船だまり」を結ぶ水路を渡っていました。土地の変遷とともに役割を終えた橋の歴史を紐解きます。
東京方面と千葉方面を結ぶ有料道路「京葉道路」を走っていると、ところどころ「〇〇橋」という看板が見られます。習志野市内の下り線では「谷津橋」や「西鷺沼橋」などがあり、注意深く観察すると、路肩は本線にはみ出す橋桁のぶんだけ狭くなり、そこが「実際に橋であること」がわかります。
ただ左右は高い防音壁に囲まれているため、その橋が「何を渡っているのか」は確認できません。特に、「西鷺沼橋」は地図で見ても京葉道路を横断する河川やアンダーパスはなく、北側には公園、南側は水路を挟んで住宅地が広がるだけです。
では、これらの橋は何を渡っているのでしょうか。その謎を明らかにするには、この地域の「土地の変遷」について知る必要があります。
かつてそこは「海」だった
現在、千葉県の船橋市〜習志野市〜千葉市という湾岸エリアを形成する都市には、海側から千葉県道15号(海岸大通り)、東京湾岸道路(国道357号および東関東自動車道)、有料の京葉道路(国道14号のバイパス)、そして国道14号現道という順番で、主要道路が並行に走っています。
しかし1950年代頃、この区間の主要道路は国道14号現道のみでした。そして海岸大通りはおろか、湾岸道路、京葉道路が現在走っている場所は陸地ですらなく、当時は海、すなわち東京湾の一部だったのです。
当時の航空写真を見ると、習志野市の京成本線「谷津駅」の南側の埋め立て地に「谷津バラ園」があり、その沖合に現在も残る「谷津干潟」が確認できますが、その埋立地より東側は海岸線が国道14号に大きく近づき、その距離は短いところで100mほどしかありません。つまり当時は国道14号現道こそ“海岸通り”だったわけです。
しかしこの状況は、1960年代になってから一変します。1961年には習志野市での第一次埋立がはじまり、京葉道路の船橋IC〜谷津IC(現・花輪IC)間が1964年に、谷津IC〜幕張IC間が1966年に、埋め立てられた土地の上にそれぞれ開通します。そしてこの埋め立て工事の完了で、海岸線は国道14号現道のすぐ南から、京葉道路が描くラインまで南下することになります。





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