「おい信じられるか? ここ全部“海”だったんだぜ…?」 高速道路の“ナゾの橋”の下で“遺構”を発見! 周りは千葉の住宅街!?
千葉県の京葉道路にある「西鷺沼橋」。防音壁に囲まれ何を渡っているのか見えませんが、実はこの橋、かつて海と「船だまり」を結ぶ水路を渡っていました。土地の変遷とともに役割を終えた橋の歴史を紐解きます。
それは「漁村の遺構」
ただこのとき、東京湾で漁業を営む漁師のため、埋立地を切り込む形で漁船を留置する「船だまり」が3か所に設けられ、京葉道路はその船だまりと海との間をつなぐ水路を橋で渡ることとなります。冒頭の西鷺沼橋は、その船だまりのひとつ、「久々田船溜」と東京湾をつなぐ水路を渡っていた橋なのです。
習志野市での埋立地はその後、第二次埋立で沖合に拡大、京葉道路の南側の海岸線は、一部が東京湾と結ばれた水路として残ることになります。
しかしその後の漁業は衰退し、1990年ごろに久々田船溜は役割を終え、埋め立てられることになりました。現在、埋め立てられた跡地は、習志野市「袖ヶ浦西近隣公園」として、近隣住民の憩いの場となっています。
まだ残っている船だまり
こうして久々田船溜は消滅しましたが、現地にはその痕跡が残っています。京葉道路が渡る水路はそのままで、かつて水路と船だまりとを仕切り、高潮に備えていた水門はいまも原型を保っています。
ただこれらの“遺構”は公園と京葉道路とを仕切る樹林帯に覆われており、一般の公園利用者がその存在に気付くことはほとんどないと言えるでしょう。
なお、残るふたつの船だまりのうち、「鷺沼船溜」もほぼ同時期に埋め立てられて消滅しましたが、「谷津船溜」は谷津干潟の最奥部で、習志野市の「葦切児童公園」に隣接し保存されています。こちらは一般の立入りは制限されていることから、海鳥たちの楽園となっています。
あらためて習志野市での第一次埋立がはじまった時期の海岸線と現在の海岸線を比べると、陸地は海方向に約2kmも移動していることになります。この埋め立てにより生み出された土地がなければ、現在の千葉県の湾岸部の繁栄はなかったと言ってもいいでしょう。
ただ、この地域では市街地化と工業地帯化が同時に進んだことで、増大する交通量に道路整備が追いつかず、長年にわたり慢性的な渋滞が発生しています。その課題の解決のためにも、現在構想中の「新湾岸道路」の早期の事業化が求められるところです。
Writer: 植村祐介(ライター&プランナー)
1966年、福岡県生まれ。自動車専門誌編集部勤務を経て独立。クルマ、PC、マリン&ウインタースポーツ、国内外の旅行など多彩な趣味を通し積み重ねた経験と人脈、知的探究心がセールスポイント。カーライフ系、ニュース&エンタメ系、インタビュー記事執筆のほか、主にIT&通信分野でのB2Bウェブサイトの企画立案、制作、原稿執筆なども手がける。





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