幻の地下鉄直通案も!? 「京葉線」のターミナルが結局“遠すぎる東京駅”に決まったワケ

貨物線として構想された京葉線は、その後の沿線の開発計画や社会情勢の変化にあわせて計画も変容していき、結局は貨客併用で開業しました。ターミナルの位置や地下鉄有楽町線との関係などが現在の形に決着するまで、どのような経緯があったのでしょうか。

危機的状況に陥っていた総武線

 1990(平成2)年3月に東京~蘇我間が全通した京葉線は元々、武蔵野線と一体となって東京の外環状線を形成し、工業施設と港湾を結ぶ貨物線として計画されました。しかしその後、開発計画や社会情勢の変化により、路線の計画も変わっていきます。鍵を握っていたのは、輸送力の逼迫が危機的な状況に陥っていた総武線と、建設が進む成田空港でした。

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東京~蘇我間を走るJR京葉線(画像:写真AC)

 京葉線の計画が正式に登場するのは、1961(昭和36)年6月に改正された鉄道敷設法の別表です。京浜地域の埋め立てが大正時代から進んだのと対照的に、千葉県側の「京葉工業地帯」の開発は1950年代に入ってから進んだことが背景にありました。

 京葉線の建設は鉄道建設公団が担うことなり、1964(昭和39)年4月に基本計画が決定。翌年6月に運輸大臣から工事線として指示を受け、法改正からわずか3年で着工に至りました。

 その頃、並行する総武線の旅客輸送は危機的な状況に陥っていました。平井~亀戸間のピーク輸送人員は1955(昭和30)年から1963(昭和38)年までに2倍近く増加し、混雑率は300%に達しました。

 今後、千葉方面の旅客需要はさらに増加する見込みだったことから、1969(昭和44)年に地下鉄東西線との相互直通運転開始、1972(昭和47)年までに津田沼までの複々線化と東京駅乗り入れを実現し、総武線の輸送力を飛躍的に向上させました。

 総武線の弱点が都心側ターミナルの立地でした。1932(昭和7)年の両国~御茶ノ水間開業以降も、中長距離列車のターミナルは両国が主で、一部に御茶ノ水経由で新宿発着の急行列車が設定されるのみでした。

 総武線が東京駅に乗り入れる直前、1972(昭和47)年3月の時刻表を開くと、下り急行列車は「犬吠」と「水郷」の併結列車が7本(両国発4本、新宿発3本)、「うち房」と「そと房」が計20本(両国発11本、新宿発9本)でした。

 これが東京開業後の1978(昭和53)年10月になると、特急の「あやめ」「しおさい」「さざなみ」「わかしお」の計25本は全て東京始発。急行の「犬吠」「鹿島」「水郷」「内房」「外房」は計15本(両国発12本、新宿発3本)となり、特急と急行でターミナルを使い分ける形となりました。

【計画図】京葉線の都心ルートと「総武開発線」との複々線化構想を見る(画像)

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