知られざる「氷川丸」の姉妹船、「平安丸」とは 海の上と底、2隻を分けた数奇な航跡(画像18枚)
「平安丸」は潜水艦乗組員の癒し手へ
シアトル航路休止ののち、「平安丸」は1941年9月17日から20日まで帝国陸軍に期間徴用され、同年10月3日付で帝国海軍に徴用されます。これには、1922(大正10)年に日本やアメリカ、イギリスなど5か国間で結ばれたワシントン海軍軍縮条約が関わっています。
同条約の主な内容は、軍拡競争を抑制するため、締結国間における戦艦や空母の保有を制限するというものです。これを受け帝国海軍は、平時には商船として運用し、有事には軍船に改造し運用できるような大型の貨客船を所望していました。こうして、国内の海運各社に、有事の徴用を前提とした商船が生まれることになります。「氷川丸」や「平安丸」も、そうした経緯で建造された商船でした。
帝国海軍に徴用された「平安丸」は、横須賀鎮守府所属の特設潜水母艦へ改造されます。「潜水母艦」とは、潜水艦の補給や修理、乗務員の休憩所などを担う船のことで、「特設」は商船から改造されたものを意味します。「平安丸」の船倉も、魚雷格納庫や弾薬庫、糧食庫などに改造され、船体は迷彩柄に塗装、武装も施されました。
おもに、当時帝国海軍の要所であったラバウルやトラック(当時)と内地とを結ぶ輸送任務についていた「平安丸」ですが、1943(昭和18)年にはキスカ島撤退戦に参加しています。これは北太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの、日本軍守備隊の撤収戦のことで、連合軍が島を包囲するなか全員が無傷で撤収に成功した、奇跡とも称される作戦です。ただ、この作戦に関し「平安丸」がどのような活動をしたのか、日本郵船歴史博物館の企画展担当によると「(企画展に際し)戦闘詳報も当たりましたが、今回の調査では明らかになりませんでした」とのことであり、また潜水艦による作戦は、さほど成果を上げられなかった初期段階のものですが、ともあれ奇跡の一端に「平安丸」が名を連ねていたことは確かです。
やがて1944年2月17日から翌18日にかけ、トラックは米軍の大規模な空襲を受けます。この2日間でおよそ60隻の日本の艦船が沈み、「平安丸」もまたトラック(現チューク)の海で眠りにつくことになりました。
なお同じく帝国海軍の特設潜水母艦として改造され、のち特設運送船となっていた「日枝丸」は、「平安丸」に先立つこと約3か月の1943年11月、トラックへの航海中に米潜水艦の魚雷で撃沈されています。
おはようございます。今日の朝は、仙台市内では3㎝位雪が積もりました。こうゆう日は、やはり4駆のランドクルーザーかパジェロかハイラックスで、雪道を走ってみたいですね❗
生き分かれた妹妹船が再会するのは海の底かそれとも…
ある戦記で氷川丸も大戦末期にはオイルタンクを増設して病院船偽装タンカーとして運用されたというヤバい話を読んだ。
沈められた客船の話だと、浅田次郎のシェエラザードが頭に浮かぶ。