テロへの備え、警察の「特型警備車」誕生の背景 初代には「あさま山荘事件」の弾痕も
「コマンドカー」、時代に間に合わず
1960(昭和35)年に入ると、安保闘争は激しさを増します。1960年6月10日、アイゼンハワー大統領訪日に先立ち、日程調整のためジェイムズ・ハガティ報道官が来日しました。羽田空港を出たところで、デモ隊に取り囲まれ、米海兵隊がヘリを出して救出するという前代未聞の事件が起きます。まさに日本の治安は最悪な状況でした。
そうした情勢のなか、危機管理のプロとしてテレビでもお馴染みの佐々淳行氏が警備一課長、そしてのちに防衛庁事務次官まで務める丸山昴氏が会計課長の際、「特型警備車」を作ることが決まりました。しかし、いざ完成した時には、60年代から70年代にかけての安保闘争は収束に向かってしまいました。そこで、「天下の無用の長物は、“万里の長城”、“戦艦大和”、そして“警視庁の特型警備車”」と揶揄されたと、佐々氏の自著『連合赤軍「あさま山荘事件」』(文春文庫)のなかに書かれています。
それまでは、米軍から供与されたフォード製CMPシリーズの砲兵トラクターや、日本軍の九五式軽戦車や九七式中戦車などを改造した放水車や装甲車を配備していました。イチから製造したのは“無用の長物”こと、警視庁の特型警備車が最初になります。「コマンドカー」という通称を持ちます。
重厚そうな銀色の車体が特徴です。見た目通り、総重量は11tもあります。なかに乗ったまま銃が構えられるように、銃眼があります。ルーフトップには放水銃もあり、暴動対処も可能。フロントガラス部分は鉄板で覆う事が出来ます。型式番号は「F-3」です。
特徴的なのは、車両前面がまるで犬の顔のように飛び出している点です。実は、ベースとなっているのは三菱ふそう(当時は三菱自動車)のボンネットトラックだからです。この飛び出した部分にエンジンが入っています。簡単に言うと、トラックを鉄板で覆っただけという構造となります。車両後部には出入り用のハッチがあり、銃器対策部隊の隊員はここから出入りをします。
後の課題は法曹界がテロをどう扱うか