戦艦「陸奥」はなぜ爆沈した? 旧海軍のアイドル艦 隠された事故とその背景、残る謎
最期はなぜ機密とされたのか
「陸奥」が竣工したのは、公式には1921(大正10)年10月24日となっていますが、この時の完成度は実は85%程度だったと言われています。「陸奥」の建造中はちょうど、国際軍縮会議である「ワシントン会議(1921年11月12日から翌年2月6日まで)」が行なわれており、会議の後、締結された「ワシントン軍縮条約」では「未成艦は廃棄する」と規定されていました。英米は「陸奥」を未成艦とし、これの廃棄を要求されたのですが、同型艦「長門」1隻のみでは戦力にならないため、日本は無理やり竣工を取り繕ったのです。
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英米の査察団は日本の巧みな欺瞞工作と接待攻勢(事実上の査察妨害)によって、「陸奥」が未成艦であることの確証を掴めません。また条約では、主砲は16インチ(=40.6cm)以下と規定されており、「長門」「陸奥」の41cm砲はレギュレーション違反でしたが、これも査察団をごまかすことに成功します。
結局、「陸奥」の保有を認めさせるのと引き換えに、アメリカには「コロラド」「ウェストバージニア」、イギリスには「ネルソン」「ロドニー」の建造を認めることになります。この5隻に既存の「長門」、アメリカの「メリーランド」を加えた7隻が、16インチ主砲を搭載した「世界のビッグ7」と呼ばれたのです。
しかし「陸奥」は、太平洋戦争が始まるとミッドウエー作戦やガダルカナル島戦に参加するも、すでに戦艦の時代ではなく、敵艦と砲火を交えることはありませんでした。それでも姉妹艦「長門」と共に「『陸奥』と『長門』は日本の誇り」と、いろはかるたにうたわれるほど有名で、寄港地には見物人が多く集まるなど、日本海軍を象徴するアイドル艦であり続けました。
そのようなアイドル艦が突然、瀬戸内海で爆沈してしまったのです。1943(昭和18)年という年は、4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、5月29日にはアッツ島玉砕と、暗いニュースが続きました。そのためか海軍は、この「陸奥」の事故を国民にひた隠しにします。爆沈現場を目撃した「扶桑」は、事故直後から「陸奥」に関する一切の発信が禁止され、沈没地点には標識ブイが設置されて艦船の航行も禁止されます。事故があったことを国民が知るのは戦後になってからです。
大本営参謀であった爺様の従弟の調査では、ピクリン酸を使用した下瀬火薬(国内では硝石が枯渇し、TNT火薬の製造が滞ったため明治時代に開発されていた下瀬火薬が再度生産されていた)下瀬火薬は取り扱いが難しく、三笠、畝傍など何度か火薬の取り扱いミスによる爆発事故が起こっており、陸奥もこの事故によるものと推定される。またこの手の事故の場合、自軍の不備を敵国に知らせないため原因不詳として発表するのが常である。
自分は海中から引き揚げられた陸奥の船体を実際に確認しているが、外部から機雷による力がかかった後で内部から爆発したような相反二方向に力がかかったのではなく、内部から外部に向かって一方的に力がかかっているように見受けられた。よって、触雷や魚雷攻撃によるものとは考えにくい。
兵の放火によるものかどうかは俄かには判断し難いが、少なくとも外部からの攻撃ではないと思われる。