手のひら返しで「イギリスの誇り」に だが… 英戦車「チャレンジャー」波瀾万丈の人生
イギリス製「チャレンジャー」戦車は、その開発から実に波乱万丈な経緯をたどりました。そもそもイランが発注して開発が始まった同戦車、イギリスでの運用終了後スクラップになりそうだった危機を乗り越え、中東で再び一線を張ります。
複雑な歴史歩むイランと、イランに行きそびれた英戦車
2020年1月3日、アメリカがイラク国内でイラン革命防衛隊のガセム・ソレイマニ司令官を殺害して以降、アメリカとイランのあいだには高い緊張状態が続いています。
もっとも、アメリカとイランの軋轢はいまに始まったことではなく、1979(昭和54)年に当時アメリカが肩入れしていた、モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー2世皇帝の独裁政権が革命で打倒されてから、40年以上に渡って続いています。
現在のイランからは想像できないかもしれませんが、パフラヴィー2世皇帝が実権を握っていた時代のイランは中東で最も親欧米的な国のひとつであり、皇帝自身が軍事趣味に造詣の深い人物でもあったため、アメリカや西側に属するヨーロッパ諸国から多数の最新鋭兵器を購入していました。
パフラブィー2世皇帝時代の1975(昭和50)年から1979年にかけて、イランはイギリスから、当時のイギリス陸軍の主力戦車であった「チーフテン」を700両以上導入し、さらに石油がもたらす莫大な資金力を背景に、イギリスにチーフテンの改良型である新型戦車「シール・イラン(イランの獅子)」を発注していました。
シール・イランの開発は、まずはチーフテンのエンジンを強化して機動力を高めた「シール1」を開発し、しかるのちシール1に大幅な改良を加え外観も一新する「シール2」開発をするという、2段階で行なわれます。
シール1の量産1号車は1977(昭和52)年1月に、同年末にはシール2の試作車も完成に至りましたが、引渡しを目前に控えた1979年1月にイランで革命が発生し、新たに誕生したイラン・イスラム共和国がイギリスにシール・イランの契約破棄を通告、生産途上にあったシール1と、開発途上にあったシール2は、宙に浮いた存在となってしまいました。
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