手のひら返しで「イギリスの誇り」に だが… 英戦車「チャレンジャー」波瀾万丈の人生
散々すぎる評判からの湾岸戦争投入
シール1に関しては、発注数が125両とそれほど多くなかったことから、ヨルダンが購入を申し出て、同陸軍の戦車「カリド」として就役することが決まりましたが、1225両が発注されていたシール2の引き取りを申し出る国はありませんでした。
当時のイギリスは深刻な失業問題を抱えており、シール2の開発と生産を中止すれば、関連企業を含めて多数の失業者が発生することは避けられず、イギリス政府は頭を痛めていました。
しかし「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉もあるように、シール2にも拾う神が現れます。
当時イギリス陸軍は、アメリカと共同で「MBT80」という名称の新戦車を開発していましたが、開発コストの上昇と開発スケジュールの遅延などの理由から1979年に開発の中止が決まりました。イギリス陸軍はチーフテンの後継車両としてシール2を導入し、「チャレンジャー」の名称で、同陸軍にて就役することになったのです。
就役当初のチャレンジャーには不具合も多かったようです。1987(昭和62)年にカナダで開催されたNATO(北大西洋条約機構)の戦車競技会における射撃競技では、アメリカのM1エイブラムスや西ドイツ(当時)のレオパルト2が90%以上の命中率を残したのに対し、チャレンジャーの命中率は75%と散々な結果に終わり、イギリス国内ではチャレンジャーを導入した政府の責任問題にまで発展しています。
イギリス陸軍は批判的な世論を甘受しながら、チャレンジャーの改良と訓練を粘り強く続けます。やがて1991(平成3)年の湾岸戦争において、チャレンジャーを運用するイギリス第1装甲師団は、イラク軍戦車300輌以上を破壊してイラク陸軍第12戦車師団と歩兵師団を壊滅させ、自らは損害ゼロという、戦車戦史上まれに見るパーフェクト・ゲームを演じて汚名を返上します。戦車競技会の時には散々、批判していたイギリス国民も手のひらを返して、凱旋したチャレンジャーをイギリスの誇りであると賞賛しました。
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